なーんもならん座禅

まずは、スマッシュコラム5で述べたことの一部を訂正させていただきます。
あそこで私はこんなことを申し上げました。「悟りの世界はドライ過ぎるほどドライなものである」。
これは実は、悟りの世界に、人の心をウルウルさせるような情緒的なものを求めておられる人たち向けて、「実際に悟りの世界に入ってみたら、そんな人間くさい期待は裏切られますよ」という意味合いを込めて、敢えて強い言い方をしたものでありました。
が、そういう「警告」の意図を離れて、客観的かつ公平な眼で眺めてみますと、悟りの世界はト゜ライでもウエットでもない、というのが本当のところであります。ドライとかウエットとかいう区別も含めて、あらゆる二元性を離れているのが悟りの世界というものですから。
さて、悟りの世界に対する人間的というか人間くさい期待をしりぞけるための強烈な物言いの一例として、沢木興道という禅僧が残された言葉を今思い出しましたので、紹介しておきましょう。
「なーんもならんわい!」というのが、それです。
これは、座禅の効果を問うた人に向けて発せられた言葉なのですが、そこに秘められた意図は前述のようなものであったろうと思います。
この方は曹洞宗の方なのですが、宗風に照らした限りでは、臨済宗にこんな物言いをされる方ってあまりいらっしゃらないような気がします。いかにも曹洞宗の方らしい言葉だと思います。
が、彼は別のところでは、こんなことも言っておられます。
「なーんもならん座禅って、楽しくはありませんか」
何にもならない座禅だからこそ、そこに楽しさがあるんじゃないか、というわけです。
さて我々の生活を振り返ってみますと、何かのためになる行い、特定の目的に到るための行為がほとんど、もしくは全てであって、目的意識を全く伴わない行為というものはめったにありません。それに近いものとしては睡眠がありますがそれとても、顕微鏡を覗くように調べてみますと、疲れをとるためとか、睡眠欲を満たすため、といった目的意識が潜んでいることが分かります。
従って、禅とか禅的な境涯に関心をお持ちの方を除くと、この世界のほぼ百パーセントの人たちは、目的意識を全く伴わない行為というものをご存じない、と言えるでしょう。そういったものを想像することならあるでしょうが、想像するってことと実際に体験するってこととは違います。
目的意識を全く伴わない行為、具体的には沢木興道さんのおっしゃる座禅みたいなものほど、想像したことと体験して分かることとの落差が大きいものはないのではないか、と思います。と申しますのは、真の意味でそれをやると(言うはやすく行うのは難しいのですが)、「こちらの世界」から私は居なくなっちゃうからであります。
結論だけを申し上げますと、悟るということも含めて、何の目的も持たずに座る、ということは実は「こちらの世界」を去る、ということを意味しているのです。
「こちらの世界」を去るとそこには、求めていたわけではない悟りの世界が待っているのですが皮肉なことに、それを求めている人は、一つの目的意識に支配されていることになるので、いつまで経っても「こちらの世界」を離れることができず結果として、悟りの世界を見ることはできません。
悟りの世界に入るために我々にできることは、「こちらの世界」を去る、という一つのことだけであって、それができさえすれば結果として、悟りの世界に入ることは必ず付いてくるようになっています。
「こちらの世界」を去って、然る後に、悟りの世界に入る、という二つの過程があるのではない。「こちらの世界」を去ったらそこがそのまま悟りの世界なので、実際は一つの過程しかないわけです。
これは分かりやすい例えで申し上げますと、家から居なくなることと家の外に出ることとは一つの過程であって二つの過程ではない、というのと同じ理屈であります。
従って我々は、悟りの世界に入りたいのであれば、悟りの世界のことは横に置いといて、「こちらの世界」から去ることのみに専念すればよい、ということになります。繰り返しになりますが、悟りの世界のことが念頭にありますと目的意識から離れることができないので、結果として「こちらの世界」に居るままの自分で終わってしまいます。見方によっては、「こちらの世界」から去る、というのも一つの目的意識と言えなくもありませんが、そこにはどこか別の場所を志向している要素がありませんので、仮に目的意識と呼ぶにしても消極的な目的意識だと言えます。今自分が置かれている場所とは違う、別の場所を志向するものではない、そういう消極的な目的意識ならば悟りの世界に入ることの妨げにはならない、とも言えます。
いずれにしても、悟りの世界に入るための手立としては、「こちらの世界」から去る、という間接的なものしかありません。そこへ行くための直接的な手立てというものは無いのです。
もし仮に、そんなものがあるとしたらそれは、次のことを意味しています。
悟りの世界は、我々(悟る前の我々)の居る「こちらの世界」と同じ地平の中に存在している、もしくは、今の我々が出向いて行って辿り着くことのできる地続きの場所に存在している。
もし仮に、悟りの世界がそのようなものであったとしたらそこには、本当の意味での新しさは無いってことになります。なにせ、今の我々が居る場所と地続きな場所にあるわけですから。新しくはあるでしょうが、丸きり新しいものではあり得ない。でも幸いなことに、悟りの世界はそんな場所にはありません。
話を戻しますが、「こちらの世界」を去るためには、悟るってことも含めて、目的意識と名のつくものを全部捨てるしかない。もしくは、目的意識の出所である心を丸ごと脇に置くしかない。そうすると前述のような理由により、結果的に我々は悟りの世界に入ることができるわけです。逆説的ではありますがね。
このようなわけで、「なーんもならん座禅は楽しい」という言葉の真意は実は、目的意識が全く無い座りはそのまま、悟りの世界に座っていることとイコールなので楽しいですよ、ということだったのです。
本当は別のことが言いたくて話を始めたのですが、成り行きにまかせて話を進めていたら、こんなんなっちゃいました。週末は地方の実家に帰りますんで、次の更新、なるべく遅くなりすぎないようにしなきゃな、てなことを思っているところです。
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