心と真我


(65)あれも夢これも夢

「この現実界は夢である」ということを前回申し上げたが、遅ればせながら、それの意味に関しては少々補足が要る。まずはじめに押さえておきたいのは、それは次のことだけ意味しているわけじゃないってことである。
「我々の眼前に広がる景色は夢である」
「この現実界は夢である」という言葉にはそういう意味もあるにはあるが、それに加えて「肉眼を通して景色を見るという我々の体験それ自体」が夢であるという意味もまた含まれているのだ。要するに、夢なのは我々の眼前に広がる景色だけなのではない、それ以前の問題として、肉眼を通して景色を見るという我々の体験それ自体からして夢に他ならない、というわけである。難しいだろうか。そのことを手っ取り早く飲み込みたかったら、睡眠中の夢のことを思い出してみられるとよい。
我々は睡眠中の夢の中でも、肉眼(夢の中の肉眼)を通して景色を見ているが、あなたはご存じであろう。その肉眼に映る景色ばかりではなく、「肉眼を通して景色を見るという我々の体験それ自体」もまたそこでは夢に他ならないことを。睡眠中の夢が、前者も後者も二つながら含んでいることを、ご存じない方はいらっしゃらないはず。
誰にとっても明らかなように睡眠中の夢は、我々の眼前に広がる景色も、「肉眼を通して景色を見るという我々の体験それ自体」も、どちらも含んでいる。そこにおいては、両方ひっくるめて夢だと言える。前者だけが夢で、後者は夢じゃないなんてことはあり得ない。前者が夢なら後者もまた夢、夢とはそういうものだ。
これだけ申し上げれば、もうお分かりであろう。睡眠中の夢も現実界という夢も、夢であることには違いはないのだから、睡眠中の夢がそうだってことは、現実界という夢もまたそうでなきゃおかしいってことが。睡眠中の夢であれ現実界という夢であれ、夢の基本部分は同じであることを考えると、この現実界に居る我々の、眼前に広がる景色も、「肉眼を通して景色を見るという体験それ自体」も両方ひっくるめて夢という他はない。
ついでだからもっと突っ込んだことを申し上げるならば、同様の理由により、医学や生物学の分野で解明されている「肉眼に備わる景色を見るしくみ」でさえも夢ってことになる。それがどんなに精巧にできていても夢は夢だ。
ピンと来ない方は、想像してみていただきたい。ある意味突飛な想像ではあろうが、睡眠中の夢の中で、医学か生物学の研究をしているあなたが人の肉眼を解剖しながら、「肉眼に備わる景色を見るしくみ」を実地に学び取ろうとしている場面を。それを通してあなたに思い至っていただきたいのは、くだんの夢の中であなたが何を学び取ったとしても、その全ては夢の中にあるものについてのことなんだという事実である。そこに思い至ることができたならば、この現実界で解明済みの「肉眼に備わる景色を見るしくみ」もまた夢の一部に他ならないことを受け入れるのは、そう難しくないであろう。余談だが私は個人的には、こう思うことさえある。その全ては現実界という架空の世界にリアリティーを持たせるための、あるいはそれを本当らしくみせるための、精巧な仕掛けではないのか、と。まあ、誰が仕掛けたのかってことまでは知る由もないのだけれども。
さて以上のようなわけで我々は今、「肉眼を通して景色を見ている」という夢の中に居るのだとも言える。この夢、子供にでも分かるように解説するとしたら、肉眼を開ければ景色が見え肉眼を閉じたら景色が見えないという夢、あるいは、左を向けば左の景色が見え右を向けば右の景色が見えるという夢、といったところだろうか。
私の夢の定義は簡単に申せば「見られる側に在るもの」ってことだが、裏を返せばこれは、我々が今居る現実界という夢には目撃者(見る者)が存在するってことに他ならない。で、この現実界という夢の目撃者は、これまで再三申し上げてきたように、三次元空間の外に存在する真我である。我々が今居る現実界という夢が三次元空間の中に存在しているのに対して、その夢の目撃者である真我は三次元空間の外に存在しているのだ。従ってその夢を映画のスクリーン上の出来事になぞらえるとしたら、真我はさしずめ観客席の位置からそれを見ている目玉ってことになるだろう。
ここで見落としてならないのは、この喩えの中で我々は、スクリーン上の登場人物であると同時に真我という名の目玉を携えた存在でもある、ということだ。スクリーン上の登場人物である我々が何ゆえに、スクリーンの外にあるそんなシロモノを携え得るのか? と、いぶかる向きもあるかも知れない。が、もしそうじゃなかったら我々は、三次元空間の中に身を置きながら、三次元空間の広がりを認識できる道理がない。といってもこれは、あなたが既に次の事実を掌握しておられることを前提に申し上げているのだけれども。
「自分が今身を置いている空間の広がりを認識するためには、肉眼とは別にもう一つの眼をその空間の外に持っていなければならない。」これについての解説はこれまで何度かしているので、ここでは繰り返さない。
以上の話は言い換えれば、我々にある三次元空間の広がりに対する認識は実は、三次元空間の中に居る我々自身に由来しているのではなく、その外に存在する真我から来ている、ということでもある。従って三次元空間の中にある我々の肉眼をとことん調べ尽くしても、その認識が生じるしくみを見い出せるわけはないのだ。あんなに精巧にできている肉眼なのに、である。
三次元空間の外に存在する真我という名の目玉は、我々の眼前に広がる景色と、肉眼を通してそれを見るという体験も含めて我々が体験することの一つ一つを見ている。ちょうど映画の観客がスクリーン上の景色と、主人公が体験することの一つ一つを見ているのと同じように。
だからこそ我々は、眼前に広がる景色が三次元空間の中に在ることが分かるのでありまた、自分の全体験が三次元空間の中で起こっていることが分かるという次第だ。
(66)に続く
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