心と真我


(66)真我を三つのものになぞらえる

前回の話からもお分かりのように、真我という名の見る意識は我々の肉眼に映るモノ全てを三次元空間の外から見ているのだが、この真我という名の見る意識にはもう一つの特徴的な側面がある。何かというと、肉眼に映るモノ全てに対して常に「釘付け」にもなっているということである。ここに言う「釘付け」にもなっている、の意味がお分かりだろうか。以前にも述べたことがあるかと思うがそれは、その中のある部分が肉眼に映るモノ全てと場所を同じくしている、ということである。もしくは、肉眼に映るモノ全てと場所を同じくしている部分がある、と言い換えてもよい。難しいようでしたら今の話は横に置き、俗に言う「眼が釘付けになる」という言葉からその意味を類推していただければ、大体のニャアンスはお分かりになるのではないかと思う。もちろんその前提として、真我という名の見る意識もまた広い意味における眼なんだってことを押さえておく必要があるのだけれども。
ご存じのように我々の肉眼に映るモノは全て三次元空間の中に存在しているがここでは、その三次元空間を一枚のパネルという平面的なものに置き換えて以上の話を掘り下げてみたい。これ以降「パネル」という言葉が出てきたら、肉眼に映るモノ全ての在り処すなわち三次元空間の象徴とお受け取り願いたい。
真我という名の見る意識は我々の肉眼に映るモノ全てを三次元空間の外から見ている、ということを冒頭で申し上げたが、そこのところだけに着目する限りでは真我という名の見る意識をなぞらえるにふさわしいのはやはり、「パネル」を真上から見ている目玉ってことになるだろう。が、視点を変えて、真我という名の見る意識に備わるもう一つの側面、すなわち我々の肉眼に映るモノ全てに対して「釘付け」にもなっているというところに着目した場合、話はまた違ってくる。
その場合に限って申せば、真我という名の見る意識をなぞらえるにふさわしいのは、「パネル」を真上から照らしているライトの光だと言える。といってもこれは、私の個人的な見方に過ぎないのだけれども。人によってはその候補として別のものを挙げるかも知れないが少なくとも、先ほどのように「バネル」を真上から見ている目玉を挙げる方だけはいらっしゃらないはず。そのイメージからはどう考えても、真我という名の見る意識とそれが見ているモノとの間には如何なる接点も無いという理解しか持つことはできませんからね。
というわけで、ここでちょっと、「パネル」を真上から照らしているライトの光をイメージしてみていただきたい。そのイメージの中では当然ながら、ライトの光は「パネル」に当たっていなければならないわけだが、そのライトの光が「パネル」に当たっているところに着目すれば、前述の真我という名の見る意識に備わる「もう一つの側面」って奴を、イメージ脳とも呼ばれることのある右脳で把握できるに違いない。すなわち真我という名の見る意識が見られるものに対して「釘付け」にもなっているという消息が、理屈じゃないところでお分かりになるに違いない。
とはいえ真我という名の見る意識を、「パネル」を真上から照らしているライトの光になぞらえることにも難点が無いわけではない。具体的に申せば、このなぞらえ方では人様に伝わりにくいことが少なくとも二つはある。その一つは、真我には見る働きがあるということ。もう一つは、真我は不可視の存在であるということ。
前者を伝えることが目的ならば、すなわち真我には見る働きがあるってことを伝えることが目的ならば、「パネル」を真上から見ている目玉に、真我という名の見る意識をなぞらえる方が良いのは既にご承知の通りである。
では、後者を伝えることが目的だった場合、すなわち真我という名の見る意識の不可視性を伝えることが目的だった場合、それをなぞらえるにふさわしいものは何だろうか?
これまた私の見方に過ぎないが、それは「パネル」の上に立つ透明なガラスの柱である。「パネル」の上に立つ透明なガラスの柱、これは前述のライトの光をガラスという透明なものに置き換えただけのものだとも言える。そう考えると、分かりやすいのではないだろうか。もちろんガラスがいくら透明だからといって我々の肉眼に映らないわけではないのだが、この世に存在するものの中で、真我という名の見る意識の不可視性を象徴するにふさわしいものを強いて挙げるとしたら、透明なガラスぐらいしか私には思い浮かばない。私が前述のような見方をするのは、そのためである。
(67)に続く
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