心と真我


(67)見るものは見られるものだ

肉眼がモノを見るための道具という意味での眼なら、真我はモノを見る主体という意味での眼だ。そして、その真我すなわちモノを見る主体という意味での眼は前回申し上げたように、見られるモノに対して「釘付け」にもなっている。で、ここに言う「見られるもの」が三次元空間の中に存在していること、また、ここに言う真我が三次元空間の外に存在していることは既に承知しておられる通りである。
真我すなわちモノを見る主体という意味での眼は三次元空間の外に存在していつつ、その中に存在する見られるモノに対して「釘付け」にもなっているという次第だ。
真我の持つ複数の側面の中で、見られるモノに対して「釘付け」にもなっているという側面にのみ着目した場合、真我と見られるモノとの関係は、この『心と真我』をはじめから順に読んでこられた方ならもう分かっておられるだろうが、鏡と鏡に映るモノとの関係になぞらえることもできる。何故ならここに言う見られるモノに対して「釘付け」にもなっている、の意味は、ちょうど鏡が鏡に映るモノと場所を同じくしているがごとく見られるモノと場所を同じくしている、という意味であるから。鏡と鏡に映るモノとが場所を同じくしている消息と、真我と真我に見られるモノとが場所を同じくしている消息とは共通するものがある。より正確に申せば、鏡と鏡に映るモノとがどの時点においても場所を同じくしている消息と、真我と真我に見られるモノとがどの時点においても場所を同じくしている消息とは共通するものがある。これは(ある角度から眺めると)真我と真我に見られるモノとは時間的にも空間的にも常に同位置に存在している、ということでもある。
その消息を、真我は見られるモノと一体化してもいる、という風に分かりやすく表現することも可能だが、その際は「ここに言う一体化には一体感という感覚的要素(感じる要素)は含まれていない」という但し書きを付けておかないと誤解の元になりやすい。両者間に一体感は無いということを理解したかったら、鏡と鏡に映るモノとの関係を思い出してみられたらよい。一つの言い方として、鏡は鏡に映るモノと一体化しているとも言えるが、だからといって鏡が鏡に映るモノに対して一体感を感じているわけじゃないのは明らかであろう。なにせ鏡って奴には考えたり感じたりするために必要な心ってものがそもそものはじめから無いのだから。それと同じことが、そもそものはじめから心ってものを持たない真我と真我に見られるモノとの関係にも当てはまる。真我それ自体には考えたり感じたりする心は備わってないという事実によっても、前者から後者に対しての一体感は生じないと言えるわけである。
ここに言う「一体化」と俗に言う「一体化」とは意味合いが違うのだ。ここに言う「一体化」が見ることを成り立たせるための一要素としての「一体化」であるのに対して、俗に言う「一体化」は既に見えてしまっているモノとの「一体化」だと申し上げたら難しいだろうか。
さて更に突っ込んだ話をさせていただくならば、真我とは「自分が映しているものを見ることのできる鏡」みたいなものだとも言える。もちろんそんな鏡、この世の中にあるわけないが、もし仮にそんな鏡があったとしたら真我をそれになぞらえて、真我にとってモノを見るとはどういうことなのかを分かりやすく説明することができる。
あなたにはお分かりになるだろうか。もし仮にそんな鏡が、言うなれば「鏡像を見れる鏡」なんてものがあったとしたら、その鏡においてはモノを見ることとモノに成ることとが同時に起こる、ということが。もしくはモノを見ることとモノに成ることとが表裏一体(同時一体)のものとして起こる、ということが。
ピンと来ない方は、くだんの鏡の前に例えば赤い幕が垂れている場面でも想像してみられたらよい。その場面の中では、くだんの鏡が赤い色に成ることは誰でもお分かりなるであろう。赤い色をしたモノの前に置かれて赤い色に成らない鏡なんてものは無いのだから。赤い色をしたモノが前にあれば赤い色に成るってのが、くだんの鏡に限らず、鏡と名の付くもの全てに当てはまる性質である。が、前述のように、くだんの鏡にはそれに加えて「映っているモノを見ることができる」というもう一つの性質も兼ね備わっている。
従ってくだんの鏡にとっては、例えば赤い幕が自分の前に垂れていたら、赤い色を見ることと赤い色に成ることとが同時に起こるってこともお分かりになるであろう。この二つは一つの事柄の二つの側面だとも言える。そこにおいては、どちらか一方が有るともう一方も有り、どちらか一方が無いともう一方も無い。そこにおいては、赤い色を見ることがそのまま赤い色に成ることを含んでおりまた、赤い色に成ることがそのまま赤い色を見ることを含んでいる。くだんの鏡にとってモノを見ることとモノに成ることとは表裏一体の関係にある、というのは具体的にはそういうことである。
以上を押さえた上で申し上げたいのは、真我にとってもまた、くだんの鏡にとっての場合と同じく、モノを見ることとモノに成ることとは表裏一体の関係にある、ということである。くだんの鏡にとってモノを見ることとモノに成ることとは表裏一体の関係にあるのと同じように、真我にとってもまた両者は表裏一体の関係にあるのだ。
従って例えばの話、今真我の見ているものが仮に赤い夕日であったとした場合、捉え方によっては真我は「赤い夕日としてそこに在る」とも言える。真我にとって赤い夕日を見ることはそのまま「赤い夕日としてそこに在る」ことでもあるのだ。クリシュナムルティが言うようにそこでは、見るものは見られるものだ。見るものと見られるものと見ることとが三位一体となった状態がそこにはある。ちなみにご記憶の方もおられるかと思うが、こうした「見る」ことと「成る」こととが表裏一体となった状態を私は『真我は垂直の次元に在り』の中で「成り見る」という造語で表現させていただいた。
ところで、前述のような話の後でこんなことを申し上げるのも何だとは思うが、私の言う「成り見る」という言葉の真意は実は、心では把握できない定めにある。何故なら真我の「成り見る」働き、もしくは「成り見る」働きを持った真我が顕在化するのは、「分かった!」だの「これのことか!」だの言う心が脇に置かれている時に限られるのだから。これは逆に申せば、真我の「成り見る」働きが顕在化している時は必ず心は脇に置かれているということでもあるわけだが。心が脇に置かれている時だけ顕在化するのが、真我の「成り見る」働きというものである。その状態をどうして心で把握することなどできるだろう。できっこない。
というわけで、その真我の「成り見る」働きというものに関して我々にできることはと言えばただ、心を脇に置くことを実践し、それを実際に顕在化させることだけである。ここに言う心なるものには顕在意識も潜在意識も二つながら含まれている、と申し上げたら「そんな難しいことはできない」と思われる向きも少なくはなかろう。が、我々は余程の修行でもしない限り心を脇に置いた状態にはなれないのかというと、そういうわけでもない。
我々は日常生活の中で例えばの話、何か全く予期してなかったモノを唐突に見るとか、全面的な驚きの中で何かを眼にした時なども一時的なものだとはいえ、そういう状態になることはある。そういう状態にある時は必ず、心によって覆い隠されていた知らなかった何か(=真我)が顕在化してモノに「釘付け」になり、モノと場所を同じくするという体験が起こるものだ。もしもあなたにそういう覚えがおありなら、一過性のものに過ぎなかったとはいえ、あなたは真我の「成り見る」働きが顕在化した状態を体験なさったことになる。
一方、その手の体験が皆無で、心を脇に置いた状態を頭の中で想像するしかない方々にとっては、今の私の話は眉唾物(まゆつばもの)に映るかも知れない。というか、前述のような体験が無いと人はこんな風に思うのが普通である。
心を脇に置いた状態でモノを見るってことはただ単に、肉眼だけでモノを見ている状態になるってことに過ぎないのではないか、と。それ以上のことがそこで起こるとは想像できない、というのが彼らの本音であるに違いない。
心を脇に置いた時その存在があらわになるモノを映す鏡のような意識、もしくは肉眼に映るモノと場所を同じくする真我という名の見る意識、その存在を言葉による説明だけで彼らに信用してもらうのは難しそうだ。
最後に申し上げよう。
真我の、肉眼に映るモノと場所を同じくしている側面にスポットライトを当て、その側面に対する理解を深めていただくために私はここまで、「真我と肉眼に映るモノの関係」を「鏡と鏡に映るモノの関係」になぞらえてきた。が、同じ目的で、それを「スクリーンとスクリーン上の映像の関係」になぞらえることもできないわけではない。鏡と鏡に映るモノが場所を同じくしているがごとく、スクリーンとスクリーン上の映像だって場所を同じくしているわけだから。
従って肉眼に映るモノをスクリーン上の映像になぞらえた場合、真我に相当するのはスクリーンだという言い方もできることになる。以前私は、そのような場合、真我に相当するのはスクリーンならぬ観客席の位置からスクリーン上の映像を見ている目玉だという風に申し上げたことがあるのを覚えておられるであろう。が、それを覚えておられる方の中に、この私のことをその時々で違うことを言う嘘つきだと思ってらっしゃる方はまさかおられませんよね。この『心と真我』を通して私が言おうとしているのは次のようなことであることを既に理解しておられるはずだから。
肉眼に映る景色がスクリーン上の映像だとした場合、真我とはそれを観客席の位置から見ている目玉のような存在であると同時に、そのスクリーンのような存在でもまたある。捉える角度によって、どちらとも言えるのが真我なのだ。
(68)に続く
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