心と真我


(68)真我は一番見つかり難いとこに居る

この『心と真我』もとうとう今回をもって最終回という運びになったが、これまで述べてきたことを踏まえながら今回は、真我に関する最も単刀直入な話から入らせていただく。
これまでのおさらいの意味も込めて、あらためて申し上げよう。真我とは、例えば今、この私の肉眼に赤い夕日が映っているとした場合、その夕日の色や形を見ている者のことでもある。そこにおいて夕日の色や形を見ているのはこの私ではなく、真我なのだ。だから、その赤い色は真我が今見ている赤い色であり、その丸い形は真我が今見ている丸い形だってことになる。もしもこの私やあなたが、自分がそれを見ているかのように感じることがあるとしたら、それは錯覚もしくは事実誤認に過ぎない。
この私やあなたの肉眼に映る色や形を見ているのは実は真我であって、個体としての我々じゃないという話、これはちょうど、夢の中に居る人の「肉眼」に映る色や形を見ているのは実は寝床でその夢を見ている主であって、夢の中に居る彼または彼女ではないという話にも似ている。肉眼の持ち主は個体としての我々ではあっても、それを通してこの三次元空間の中にある色や形を見ているのはあくまでも真我なのだ。
真我の存在している場所が三次元空間の外であることは既述の通りだが、我々の肉眼に映る色や形を見ているのは他ならぬその真我であるという論の根拠は意外にも、我々が当たり前のように思っている身近な事実の中にある。これまた既述済みのことではあるが、「我々の肉眼に映る色や形を見る働きの中には、それらが置かれている三次元空間の広がりに対する認識もセットで含まれている」というのが、それだ。この事実が何故、「くだんの論の根拠」たり得るのかについては、今となっては私よりも皆さん方の方が詳しいだろうから繰り返さないけれども。
ここで思いを馳せていただきたいのは、この私やあなたが修行して、悟りを開いてはじめてそうなったのではない、ということである。この私やあなたが修行して、悟りを開いて、その成果として真我が我々に取って代わり、我々の肉眼に映る色や形を見るようになったというのではない、そうじゃなくてそもそものはじめから、そして今の今も、悟りの有無に関係なく、我々の肉眼に映る色や形を見ているのは真我であったのだ。だからこそ我々は生まれてこの方、自分の肉眼に映るそれら一切が三次元空間の中にあることを誰に教えられたわけでもないのにちゃーんと分かっているわけである。このように申し上げてもまだ「我々の肉眼に映る色や形を見ているのは真我だ」という物言いにピンと来ないものを感じてらっしゃる向きは、次のように考えてみられても良いだろう。
「我々は肉眼に映る色や形を、真我という名の(もう一つの)眼で見ている」
前述の物言いに比べて含まれている真理の純度はいくらか下がるだろうが、こういう言い方をする方がむしろ多くの人々には分かりやすいかも知れない。
我々の肉眼に映る色や形を見ているのは真我であるということを踏まえながら、更に突っ込んだ話をさせていただくならば、我々の肉眼に映る色や形が現象として存在し得るのはそれらを見ている真我があるからだと言える。これは裏を返せば、我々の肉眼に映る色や形を見ている真我がもし無かったならばそれらは現象として存在し得ない、ということでもある。その意味を手っ取り早く理解したかったらやはり、睡眠中の夢を引き合いに出して考えてみるのが一番である。今の話にピンと来なかった方でも少なくとも、睡眠中の夢に絡む次の事実だけは了解しておられるに違いない。
仮に私やあなたが今、睡眠中の夢の中に居る者だとしたら、私やあなたの「肉眼(夢の中の肉眼)」に映る色や形が現象として存在し得るのは寝床でその夢を見ている主が居るからである。寝床で夢を見ている主が居ればこそ、その私やあなたの「肉眼」に映る色も形も現象として存在し得るのだ。それが何より証拠には、極端な例だが、もしもその寝床で夢を見ている主が夢の途中でポックリ逝ったら、夢の中に居る私やあなたの「肉眼」に映る色や形は自動的に消えて無くなるものだ。より正確に申せばそれと同時に、「肉眼」の所有者である私やあなたそのものも自動的に消えて無くなるものだ。
以上は誰でも知ってる当たり前の話だが、この話をわざわざ取り上げた私の申し上げたいことは何かと言えば、「ちょうどこれと同じように、この現実世界に居る我々の肉眼に映る色や形が現象として存在し得るのは、それらを見ている真我があればこそなのだ」ということに他ならない。こう言い換えてもよい。我々の肉眼に映る色や形が、それらを見ている真我無しに現象として存在し得えないのはちょうど、夢の中に居る我々の「肉眼」に映る色や形が、寝床でその夢を見ている主無しに現象として存在し得ないのと同じことである、と。
ということで我々の肉眼に映る色や形は、真我が見ておろうがおるまいがに関係なく、単独で現象として存在し得ているわけではないのだ。真我という名の見る意識の中でだけ、それらは現象として存在し得るのだとも言える。
その意味において、我々の耳に響く音、鼻に来る臭い、舌に染みる味、そして肌に感じる触りごこち、もう一つオマケに付け加えておくならば身体に付いて回る身体感覚といったものもまた我々の肉眼に映る色や形のお仲間ってことになる。すなわちそれらもまた、真我という見る者があってはじめて現象として存在し得るという次第だ。
ここでは説明の便宜上、真我を「見る者」という言い方で表現しているが、だからといって真我のことを、肉眼に映る色や形にのみ関係しているものであるかのようにお受け取りになりませんように。前述のように色や形のみならず、音や臭いや味や感触や更には身体感覚までも見る対象としているのが真我というものなのだから。ここに言う「見る」にはそれだけ広い意味があるということだ。
さて実は、真我という見る者が在ってはじめて現象として存在し得るのは肉眼に映る色や形をはじめとする五感情報だけなのではない。心に生じる思考や感覚や感情などもまた、真我という見る者が在ってはじめて現象として存在し得るもののお仲間なのである。ただこの点に関しては、分かりやすく説明するために、前述のような形で夢の話を例えに使えないので、説明する側としてはチト困るのだけれども。
五感情報と同じように、心に生じる思考や感覚や感情などにもまた真我という見る者が在るんだってことが今いちピンと来ない向きには私の方から、次のような質問をさせていただきましょうか。我々は何故、自分の心にどんな思考があり、どんな感覚があり、どんな感情があるのかを知り得るのか? 
如何であろう。あなたはこれに対してどのような答えをお出しになるだろうか。自分の心に思考や感覚や感情などが生じるからだろ、なんて分かったような分からないようなことだけは言わないでいただきたい。その思考や感覚や感情などの存在を我々は何故知り得るのか、というのが前出の問いの意味なのだから。
前出の問いへの取り組みによって得られる結論はどう考えても、「心に生じる思考や感覚や感情を見るための眼が我々になければならない」ということにならざるを得ないはずだが、どうだろうか。その心に生じる思考や感覚や感情を見るための眼のことをここでは真我と位置づけているわけである。
さてここで、心と真我の関係について基本的なことに触れておくならば、前回も申し上げたように、真我自身は何かを考えたり感じたりするために必要な心ってものを持たない。が、前述のようなわけでそんな真我でも、心に生じる思考や感覚や感情などを見る対象に選ぶことならできる。心を持たない真我でも心に生じるそれらを見る対象に選び得るのは例えて申せば、眼鏡をかけてない人でも眼鏡を見る対象に選び得るのと同じようなものである。
真我が見る対象に選んだものが例えば肉眼に映るモノであった場合でも、心に生じる思考や感覚や感情などであった場合でも共通して言えるのは、見ることそれ自体の中には如何なる思考も感覚も感情も含まれてはいないということである。真我には心が無いのだから当たり前と言えば当たり前の話ではあるけれども。それは言い換えれば、真我は肉眼に映るモノを見ている時であれ、心に生じる思考や感覚や感情などを見ている時であれ、対象を有りのままに見るという点では変わりがない、ということでもある。如何なる思考も感覚も感情も含まずに見るってことが有りのままに見るってことに他ならないわけだから。ついでだが肉眼に映るモノであれ心に生じる思考や感覚や感情であれ、有りのままに見ることが真我の顕在化に繋がるのは、そのためである。
真我は見る対象を選べるなんてことを申し上げると、「真我には心が無いのに、そんなことができるのか?」とお思いの向きもあるかも知れない。あらゆる選択行為は心によってなされるものだと見なしてらっしゃる方には、そんな風に思われたとしても仕方がない。
が、心を持たない真我でも見る対象を選ぶことはできるのだ。何故なら真我には、心の中に想念(精妙なものも粗大なものも含めて)として出てくる前の知恵ってものがあるから。それのことを、想念という形を取る前の知恵と言い換えてもよいだろう。真我にはそれがあるので心は無くても見る対象を選ぶことができるという次第だがそこにおける最大の特徴は、あるモノを見る対象として選んだ時点で即それを見ている状態になっているという点にある。すなわちそこでは、見る対象を選ぶことと、それを見ている状態になることとの間に時間的なズレが全く無いのだ。話が少し横道にそれたようですな。今は、真我は見る対象を選べるということだけ押さえておいていただければ結構である。
五感情報や心に生じる思考や感覚や感情などが真我にとっての目撃対象であることは前述の通りだが、銘記していただきたいのは、それらに限らず「我々がその存在を知ることのできるモノ」は何であれ一つの例外も無く、真我にとっての目撃対象に入っている、ということである。これは裏を返せば、何であれ何かの存在を我々が知ることができるのは真我という名の眼でもってそれらを目撃しているからである、ということに他ならない。言うなれば我々にとって真我とは、あらゆるモノを見るための眼なのだ。
それが分かれば、いわゆる「内的な視力」によって捉えられる「内的な領域」における様々な事象とか、瞑想中の様々な体験といったものでさえ、真我にとっての目撃対象に入っているということもまた、お分かりになるに違いない。ちなみにここに言う「瞑想中の様々な体験」なるものの中に、悟りと誤認されやすい体験、例えば、宇宙との合一とか、自分を超えた存在の体感とか、それとの一体感といったものまでも含まれているのは言うまでもない。
話を戻すが、五感情報や心に生じる思考や感覚や感情などと同じように前述のような体験もまた、「我々がその存在を知ることのできるモノ」もしくは「それがそこに在ることを我々が知ることのできるモノ」である以上、真我にとっての目撃対象ということになるのだ。真我という名の眼が捉えたモノ以外、我々はその存在を知ることはできないのだから。別の角度から申せば、真我が目撃するモノ以外、この世界に現象として存在し得ないのだから。しつこいようだが、前述のような悟りと誤認されやすい体験でさえもである。
以上のようなわけで、我々にとって最も重要な位置にあるとも言える真我だが、その真我が我々の視野に入ることが決してないのは、唯一自分自身だけは目撃対象にできないのが真我というものだからだ。そう言えば、真我に関する決まり文句の一つに「真我は対象化(客体化)できない」というのがあるが言い換えればそれは、「真我を我々の視野に入れることはできない」ということに他ならない。その意味において真我は我々からしてみると、最も見つけにくい場所に居ることは間違いない。
この『心と真我』を締めくくるに当たり最後に押さえておきたいのは、ここに言う「あらゆるモノを見る眼」なるものが何故真我と位置づけられるのか? ということである。その答えを簡単に申し上げておこう。
我々にとって、真の主体と言えるのはその「あらゆるモノを見る眼」以外にはあり得ずまた、真の主体と言えるものでなければ真我の名に値しないからである。
これについては敢えて、解説を付けないことにしたい。後は皆さんが御自分でお考えください。

《終わり》


六十八回目の更新でやっと、この『心と真我』を完結に持ち込むことができました。長い間、お付き合いいただきまして本当に有り難うございました。
確か二十数回目の更新の時「この『心と真我』もそろそろ終盤にさてしかかっております…」みたいなことを皆さんに申し上げたかと思いますが、今にして振り返ってみますと全然そんなことはなかったですね。なにせ今回の完結を迎えるまで、あれから四十回近くも更新を重ねて来たわけですから。これは、私が如何にその時々の思いつきで行き当たりばったりにこの『心と真我』を書き進めて来たかということの証明になろうかと思います。
更新を重ねて行くうちに少しずつではありますが、当ホームページへの日々のアクセス数が増えてきたのは嬉しかったですね。それと同時に、こんな訳の分からないような話に付き合ってくれる人たちが世の中には居るんだなあ、とも思いましたよ。今これを読んでおられる変わり者のあなた! これからも気が向いたら当ホームページを覗いてみてくださいや。
それにしても、フーッ疲れた。あとがきに精力使いたくないってことで、ここらへんで締めさしていただきます。
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