『心と真我』の後で・心と真我は別のもの

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『心と真我』を読み終えておられる皆さんになら、次のようなことを申し上げても違和感なく受け入れていただけるものと思う。
真我というものを、瞑想などを通して心の奥深くで感じることのできる何かであるように言う向きが巷にはあるが、その見解は間違っている。何故なら真我とは、我々が心の奥深くで何かを感じた時、その感じたことを見ている眼のことなのだから。
また真我というものを、何らかの手立て、例えば「今ここ」に居るとか、心を沈黙させることとかを通して出会える何かであるかのように言う向きも巷にはあるが、この見解も間違っている。何故なら真我とは、何かとの出会いも含めて我々が体験することの全てを見ている眼のことなのだから。
「今ここ」に居ることや心を沈黙させることなどが真我の顕在化に効を奏するのは確かだが、その顕在化した真我を我々は感じることはできないしまた、体験することもできない。繰り返すが真我というものは、我々が感じることのできる側に在るのではなく我々が感じたことを見る側に在りまた、我々が体験することのできる側に在るのではなく我々が体験したことを見る側に在るのだから。
我々が感じたり体験したりしたことを見る側に在る真我をと゜うして、我々が感じたり体験したりできるだろう。できる道理がない。それは例えば、望遠鏡を覗いている眼それ自体を望遠鏡の視野の中に見出すことはできないのと同じである。従って、もしも覚者が真我というものを体験できる何かであるかのようにも取れることを言ったとしたらそれは、言語表現上の都合によるものだと考えて間違いない。
それにしても、この真我の見る働きの何たるかを人様に分かるように説明するのは難しそうだ。難しいというより、不可能とこそ言うべきだろうか。上の話を読まれた皆さんは少なくとも、真我の見る働きの中に感じる要素は含まれていないことだけは察しておられるであろう。そこで明らかにされているのは要するに、感じることは心の領分であり、その心が感じたことを見る側に居るのが真我であるということなわけだから。が、では一体、その感じる要素の含まれていない見る働きとはどういうものなのかってことになると、そんな皆さんにもよく分からないに違いない。もしこれを読んでらっしゃる方の中に覚者がおられたら、もちろんその方は例外だが。
思考はもとより感覚(感じる働き)さえも含まれていない真我の見る働き、もしくは認識作用、これを一体どう説明すれば皆さんにピンと来ていただけるものやら頭をかかえるところだが、取あえずここでは、「感じることを取り除いてもなお我々に残る認識作用」のことだと申し上げておきましょうか。
例えば我々の肉眼に今、赤い色が映っているとした場合、赤い色を感じる心の働きを取り除いてもなお、赤い色を赤い色として認識できる真我の見る働きというものが我々の中にはあるのだ。日本語の一般的な使われ方としては「色を認識すること」と「色を心で感じること」とはほぼイコールのように思われるが、前述のように感覚(感じる働き)を伴わない真我による色の認識というものも本当はあるわけである。
それは心に感覚が生じる以前にある認識なので、「感覚以前の認識」と名づけることもできる。我々の肉眼に映る色や形と同じように、我々が心に抱く思考や感覚や感情、あるいはまた物心両世界における我々の体験全てをも、その「感覚以前の認識」を働かせながら見ているのが真我というものなのだ。

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昔読んだ本の中に書かれてあったことなのだが、日本語の「青」という言葉はそもそもは英語の「ブルー」に当たる色を表す言葉ではなく、「赤」ではない色というより広い意味合いの言葉であったらしい。英語の「ブルー」に当たる色も含めて「赤」に属さない色を指すために日本語の「青」という言葉は本来はあったようなのだ。そういうことならば、我が国において木の葉の色を「緑」とは言わずに「青」と表現することがあるのも納得が行く。
日本語の「青」という言葉を英語の「ブルー」に当たる色を表す言葉だとばかり思い込んでらっしゃる人からしてみると、木の葉の色を「青」と表現するのはチト変じゃないか? となるだろうが、「青」=「赤ならぬ色」という風に解釈するとそれもアリになる。
次に日本語の「心」という言葉について考えてみたい。
私見に過ぎないが、その言葉は昔は(あいまいな言い方ではあるが)「我々に備わっている肉体以外の何か」といった大まかな意味合いで使われていたのではないだろうか。ちようど「青」という言葉が「赤ならぬ色」といった大まかな意味合いで使われていたのと同じように。
私がそのように思うのは、昔の(例えば江戸時代とか)覚者あるいは悟った禅僧らが真我を表すために心という言葉を使うことがあるからだ。彼らは真我を表すために仏性という言葉と並んで心という言葉を使うこともあるが、もしも心という言葉を我々の多くが理解しているような意味合いの言葉すなわち、考えたり感じたり思い描いたりする働きのある何かと解釈する限りではそれは、間違った言葉の使い方をしていることになる。我々が理解しているような意味合いの心と真我とは別物なのだから。が、心という言葉を「我々に備わっている肉体以外の何か」といったより大まかな意味合いで捉えると、真我を心という言葉で表すのもアリになる。ちょうど「青」という言葉を「赤ならぬ色」といった大まかな意味合いで捉えると、木の葉の色を「青」という言葉で表現するのもアリになるのと同じように。この私の見解が妥当であるか否かは別にして、最終的に私が申し上げたいのは次のことである。
覚者が真我のことを心という言葉で表現する場合それは、一般的に知られているような意味合いの心を指しているわけではない。もしくは、一般的に知られているような意味合いの心とは別のものを指している。
ちなみに真我を表現する言葉の中には空とか無といったものもあるが、それらの言葉で真我を表現することの難点は、@で解説したような認識作用が真我に備わっていることが伝わらない点にある。真我を空とか無といった言葉で表現することで、真我が俗に言う心とは別物であるということは伝えられる。また、真我が一つの領域として存在しているということも伝えられる。が、前述のような認識作用を真我が備えているというところまでは伝えられない。前述のような認識作用どころか、何らかの認識作用を真我が備えているということさえも、それによっては伝えられない。空とか無といった言葉から、何らかの認識作用を備えた存在を連想なさる方はまずいらっしゃらないはずだから。
真我は何らかの認識作用を備えていて、なおかつ一つの領域として存在していて、さらに心とは別物である、ということが伝わるような真我の言い表し方というものはないのだろうか。私の見た限りでは、少なくとも日本語の中にそれらの条件を満たすような言葉は見当たらない。きっと他国の言語の中にもそれを見つけることはできないに違いない。が、考えてみればそれは当然のことだとも言える。真我という言葉それ自体からして使う人が超少ない超マイナーな言葉なのに、それの具体的な中身までが伝わるような言葉が我々の間に生まれるわけはないのだ。
そうした背景を勘案すると、覚者とりわけ昔の悟った禅僧などが真我のことを敢えて心という言葉で表現した、あるいは表現せざるを得なかったのもうなづける。だが我々は、その表現にまどわされて真我と俗に言う心とを関係あるものであるかのように見なしてはならないわけである。
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