真我とその探求者との間に接点は無い


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我々は、心(顕在意識+潜在意識)と体と真我の三つから成り立っている。究極の見地に立てば「在るのは真我だけで、心と体は本当の意味においては存在しない」と言うこともできるが、今は話の進行上、相対的な見地からそう申し上げているわけである。
我々を成り立たせている前述の三つの内、心と体しか知らない人に、とどのつまりは悟りに到る前の人に、心でも体でもない真我の存在を説明によって分かってもらうのは骨が折れるものだ。その難しさを何に譬えたらよいものだろうか。それは例えば、色の中で赤色と青色、及びその中間の色しか知らない人に、黄色という色の存在を説明によって分かってもらうことの難しさにも譬えられるかも知れない。
色と言えば赤と青の二色しか存在しない世界というものが仮にあったとして、そこの住人に、黄色という色の存在を説明によって分かってもらうことの難しさを考えてみていただきたい。自分を成り立たせているものの中で心と体しか知らない人に、心でも体でもない真我の存在を説明によって分かってもらうことの難しさは、少なく見積もってもそれを下回りはしないだろう。

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真我というものがもし仮に、感じることのできるものであったとしたら、今はまだ真我の何たるかを知らないという人でも真我との接点は持っていることになる。何故なら彼は、まだ真我の何たるかは知らないまでも、感じることの何たるかは知っているからである。少なくとも彼は、感じるとはどういうことなのかは知っている。だからもし仮に、真我が感じることのできる何かであったとしたら、その一点において、彼にとって真我は丸きり未知の存在だとは言えなくなる、丸きり接点の無い存在だとは言えなくなる。
だが実際はどうだろうか。実際は、真我は感じることのできる何かなのではない。もっと大きく言えば、それは体験可能な何かなのでもない。従って、今の彼と真我との間には如何なる接点も無いというのが真相である。
全ての感じることや体験や既知のものが脇に置かれた時、向こうから現れるのが真我というものだ。それらは全て、心あってのものなので、こう言い換えることもできる。心が丸ごと脇に置かれた時、向こうから現れるのが真我というものだ。
その真我は、あらゆる感じることや体験や既知のものの外側に在る。
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