悟りはあらゆるものの外側で起こる

もしも悟りというものが、この私が感じたり認識したりできるものであったとしたら、悟りはこの私と地続きの場所で起こる何かだってことになる。この私と地続きの場所で起こるものでなければ、この私に感じたり認識したりできるはずもないからである。だが実際は、悟りは、この私と地続きの場所で起こる何かではないので、そういったことは有り得ない。
だからもしも、悟りというものを、この私が感じたり認識したりできる何かであるかのように言う人が居たとしたら、その人は悟りを、この私とは地続きではない場所から、この私が辿り着くことのできる地続きの場所に引きずり降ろしたことになる。
「悟りの引きずり降ろし」と言えば、悟りをこの宇宙との合一であるかのように言うこともまた、「悟りの引きずり降ろし」に他ならない。何故なら悟りとは、この宇宙空間の外側に出ることだからだ。発言の主は悟りをこの宇宙との合一と言うことで、悟りを至上の位置に持ち上げたつもりなのかも知れないが、この宇宙空間の外側に出ることを意味する悟りをそのように言うことは「悟りの引きずり降ろし」であり、悟りの矮小化である。悟りをこの宇宙との合一と言うことでさえも「悟りの引きずり降ろし」であり、悟りの矮小化なのだ。
想像力や理解力に限りのある我々人間様が、悟りを精一杯に持ち上げてさえも、我々人間様の想像力や理解力の外側にある悟りを引きずり降ろし矮小化する結果にしかならないのは理の当然である。その意味において、我々人間様はうぬぼれるのもそろそろいい加減にしなければならない。
もしも悟りがこの宇宙との合一なのだとしたら、悟りはまだ我々の理解の及ぶ範囲の中にあることになる。何故なら我々は、その状態を自分なりにとはいえ想像することができるからである。本来想像不可能なものであるはずの悟りを想像可能なものとして扱うことが、「悟りの引きずり降ろし」や悟りの矮小化でなくて何だと言うのであろうか。私がかく申し上げるのは、想像可能なものは想像不可能なものよりも小さいからである。どうか悟りというものを、自分の理解力や想像力の及ぶ枠の中に丸く小さく、自分に都合よく収めることだけは止めていただきたい。
悟りの起こる場所、それは、この宇宙空間の外側であり、我々の認識や理解や想像力や感じる力の外側でもあり、我々自身の外側でもまたある。
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