悟りは今ここでも起こる
(ひとりリレー説法3)


前回の投稿の最後で、私はこんなことを申し上げた。
悟りの起こる場所、それは、この宇宙空間の外側であり、我々の認識や理解や想像力や感覚の外側て゜もあり、我々自身の外側でもまたある。
要約すれば「悟りの起こる場所はあらゆるものの外側である」ということなわけだが、それを受けて、ここではこうも付け加えておきたい。
「しかして、悟りの起こる場所は今ここでもある」
悟りの起こる場所は“あらゆるものの外側”であると同時に“今ここ”でもあるのだ。
悟りとは真我の顕在化のことでもあるが、以上のように言えるのは、その真我の在り処は“あらゆるものの外側”であると同時に“今ここ”でもあるからに他ならない。真我の在り処は“あらゆるものの外側”であると同時に“今ここ”でもあるってことは『心と真我』を読み終えておられる方には違和感なく受け入れてもらえるのではないだろうか。おさらいになるが、その中で私は、真我を次のようにも描写させていただいた。
「真我は、この現象世界のあらゆるものを外側から見ている存在であると同時にこの現象世界のあらゆるものと場所を同じくする存在でもまたある」
このことと、前述の「真我の在り処は“あらゆるものの外側”であると同時に“今ここ”でもある」ということとは繋がっているのがお察しいただけるだろうか。いや、両者をよく見比べてみれば、両者は繋がっていることがお察しいただけるはずである。両者は繋がっている、と申し上げる代わりに、両者は同じ事柄の別の表現である、と申し上げてもよいのだけれども。
いずれにしても繰り返しになるが、真我の在り処は“あらゆるものの外側”であると同時に“今ここ”でもあるがゆえに、真我の顕在化を意味する悟りの起こる場所もまた“あらゆるものの外側”であると同時に“今ここ”でもある、という次第だ。
悟りは「“あらゆるものの外側”で起こる」とだけ申し上げると皆さんは、悟りを我々から遠いだけのものとして受け止められるに違いない。逆に「悟りは“今ここ”で起こる」とだけ申し上げると皆さんは、悟りを我々に近いだけのものとして受け止められるに違いない。どちらの言い方をしても、皆さんに伝わるのは真実の半面だけである。真実の両面を皆さんにお伝えするにはやはり、たとえ皆さんの頭がこんがらがろうとも、こう申し上げるしかない。悟りは“あらゆるものの外側”と“今ここ”の両方において起こる、と。
「“今ここ”に在ること」が悟りへの道であることは悟りに関心のある人たちの間ではよく知られているが、このようなわけで、「“今ここ”に在ること」を通してもたらされた境地が正真正銘の悟りであるのか否かを判別する基準の一つは、その境地が“今ここ”と同時に“あらゆるものの外側”にも在ると言えるようなものかどうかという点にある。
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