一読者からのご質問にお答えした後での書き足し

前回、前々回お話ししたことの補足をさせていただきます。
我々が今身を置いているこの空間は前後、左右、上下の三方向への広がりを持った三次元空間ですが、「真我は垂直の次元に在り」や「心と真我」でも述べましたように私の見解では、この三次元空間の広がりを認識するためには、視点の位置はこの三次元空間の外側になければなりません。
例えば真っ直ぐな車道のような進行方向が前と後しかない一次元の広がり(厳密に申せば車道には横幅がありますがここでは度外視して)、及び、それを左右に引き伸ばした二次元の広がりが、視点の位置をこの三次元空間の内側にとどめたままでも認識可能であるのに対して、この三次元空間それ自体の広がりを認識する場合に限ってはそうも行かないわけです。どうして、そうも行かないとおもわれますか。
「認識する」ということの中には「客体化する」ということも含まれている点に眼を向ければ、それが見えて来ます。
「認識する」と「客体化する」は同義語ではありませんが、それぞれの意味合いを考えると、前者は後者を含んでいるとは言えます。客体化できないものは認識できないからです。
ちなみに前回、前々回の話に出てきた「眼に映るモノの遠近感の把握」はそれだけでは、三次元空間の広がり全体を客体化するところまでは行けません。三次元空間の構成要素の一つである前後への広がりを客体化するところまでは行けるとしましても。
話を戻しますが前述のようなわけで、三次元空間の広がりを認識できる視点の位置とは、それを客体化できる位置でもなければならないわけです。では、三次元空間の広がりを客体化できる位置とはどこでしょうか?
どう考えても、三次元空間の外側しかありません。何かを客体化できる位置ってのは何かの外側ってことでもありますから。逆に申せばこれは、視点の位置が三次元空間の内側に在ったらどう考えても、その広がりを客体化できないということでもあります。
これで、この三次元空間の外側に在るものだけが、この三次元空間の広がりを認識できるということがお分かりいただけたと思います。
さて、我々に三次元空間の広がりを認識させているものは三次元空間の外側に在る真我であるということ、かねてより申し上げている通りですが、これまたかねてより申し上げておりますように、真我と心は別物ですので、その認識の中には「広がりを感じる」とか「立体感を感じる」といった感じる要素は含まれておりません。まして「遠近感を感じる」ということがそこに含まれていることはありません。
三次元空間の広がりに限らず、如何なる認識対象に対しても、思考はもとより感覚(感じること)を伴わないのが、真我という名の眼による認識の特徴の一つと言えます。例えば肉眼(という道具)が捉えた色や形を認識しているのも真我という名の眼ですが、その肉眼に例えば赤い色が映っているとした場合、真我はそこに赤い色があることを認識しながらも赤い色に何かを感じることはありません。赤い色に何かを感じるのは、真我が赤い色を認識した後の心の働きです。まず、真我が赤い色を認識し、次に心がそれに何かを感じるという二つのプロセスは同時ではないものの同時に限りなく近い時間差で起こるので、多くの人はそれを一つのプロセスだと見なしがちではあるのですけれども。
そこにおいて、真我は赤い色の存在を知っている、にも関わらずそれに対して何も感じてはいない。それが、真我における赤い色の認識です。一般には認識というものは感じることも含めた心の領分と見なされておりますので、真我におけるこの手の認識のあり様は、強いて名づけるとすれば、「認識以前の認識」とか「認識無き認識」といったところでしょうか。人様の作った言葉を勝手に解釈するのもはばかられますが、鈴木大拙の言う「無分別の分別」ってこれのことではないんでしようかね。
それはともかく「見るもの(認識するもの)は見られるもの(認識されるもの)だ」と言われるのは、認識の主体がこの真我である場合の話です。そこでは認識するものと認識されるものが一つになってもおります。
真我が三次元空間の広がりを認識する場合にも、事情は同じで、その認識には三次元空間の広がりに対する感覚は含まれてはおりません。前に申し上げた「三次元空間の広がりをただ知っている状態」というのはそれのことです。また捉える角度によってはそれは、「三次元空間の広がりと一つになっている状態」だとも言えます。
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