心と真我


B眼に見えない世界には二種類あること、ご存知でしたか?

ニューサイエンスという学問の分野では、存在は二つの領域から成っている、と考えられている。
一つは、眼に見える素材でできた領域(つまり、我々が暮らしているこの世界)であり、もう一つは眼に見えない素材でできた領域である。
眼に見えない素材、というのは霊的(あるいは心的)な素材のことだが、近ごろ認知度の高い気なんてのも、そのお仲間に入れてよいだろう。要するに、眼に見えないほど精妙かつ微細なもの、というほどの意味だが人によっては、第六感とか超感覚とかによって、それらを見ることができる場合もある。
この二つの領域のうち、前者は明在系と呼ばれ、後者は暗在系と呼ばれているようだがここでは、前者を第一の世界、後者を第二の世界、と呼ぶことにする。
その伝で行くと、これから取り上げようとしているもう一つの世界はさしずめ、第三の世界、ということになるだろうか。
もう一つの世界とは、第一の世界と第二の世界を見る立場にある真我の世界である。どんな素材でできているのか、という問いには「意識」と答えるしかないが、それはいかなる感覚の対象にもなり得ない即ち、五感にも、六感にも、超感覚にもかからない、という一大特徴を持っている。いや、そんな風に申し上げるよりもむしろ、 五感や六感や超感覚にかかったものを見る働きのあるもの、という方がより正確というものだ。
両方まとめて、こんな風に言うこともできる。それらを見る働きのあるものだからこそ、五感にも六感にも超感覚にもかかることはないのだ、と。
いずれにしてもこの、五感にも六感にも超感覚にもかからない言い換えるならば、物心いずれの世界にも見当たらない、というところが第三の世界(真我の世界)の世間一般における認知度を、ゼロに近いものにしている原因なのだろう。
第二の世界の場合は、五感にかからないので第一の世界ほどには世間一般の認知度はないが、それでも少なくとも、いわゆる「精神世界」という分野に関心のある人たちの間では、その存在は自明のものとされている。それは、五感にこそかからないものの、前述の五感を超えた感覚にはかかるからである。たとえ五感を超えた感覚がなくても「精神世界」に関心を持つような人は、世の中にそういうものが在っても不思議ではない、と信じている。
では第三の世界はどうかというと、そんな柔らか頭の彼らの間においてさえ、認知度がほとんど無い。この違いは一体どこから来るのだろうか。
それはきっと、相当に頭の柔らかい人であっても、次のような固定観念だけは捨てきれないからなのだろう。何かが存在しているってことは、我々に見られ得る(知られ得る)ってことであるはずだ。
要するに、ここに言う第三の世界のような、永遠に誰にも見られる(知られる)可能性のないもの即ち、いかなる感覚にもかからないものが存在していようなどとは、ほとんどの人には想定できない、ということである。
従って悟りというものは本当は、第三の世界において起こるものであるにも関わらず、悟りに関心のある人のほぼ百パーセントは、第二の世界において起こる何かであるかのように思っているのが普通である。
悟りの何たるかを具体的に知らない人でも、それが眼に見えない世界(五感にかからない世界)で起こることぐらいは知っている。
ところがギッチョン、眼に見えない世界には第二の世界と第三の世界の二つがある、ということまでご存知の人はまずいない。彼らにとっては、眼に見えない世界イコール第二の世界なのである。。
そんな彼らが、悟りと第二の世界を結びつけるのは自然の成り行きというものだ。もっと言うと悟りを求めて、第二の世界と通じるための方法(具体的には、心の奥深くに入って行く瞑想)とかに走るのものまた、自然の成り行きというものだ。
だが実際は、悟りは第二の世界ならぬ第三の世界で起こるものなので、悟りを求めているのであれば、第三の世界と通じるための方法を講じるしかない。
当然のことながら、第二の世界に通じるための方法と、第三の世界に通じるための方法とでは丸きり違う。第二の世界と第三の世界そのものが丸きり違うのだから。山の登り方と海の潜り方が違う以上の違いが、そこにはある。
両者の共通点は、どちらも眼(肉眼)には見えない、というところだけである。そんな共通点も、前者は見られる側(水平の次元)に在り、後者は見る側(垂直の次元)に在る、という根本的な違いの前には吹っ飛んでしまう。両者は眼には見えないという一点を除いては、似ても似つかぬものなのである。
覚者(分かってる人)が、悟るための方法として我々の前に提示するのは、第三の世界と通じるためのものであるのは言うまでもないが、悟りは第二の世界で起こるものだとばかり思い込んでいる人たちに、それが正しく理解されず、違和感さえ与えることがあるのは、以上のような理由による。
それは例えば、海の底に何かを探しに行こうとしている人たちに、山登りのコツを教示してもキョトンとされるしかないようなものだとも言える。
そこで、悟りは第二の世界で起こる何かであるかのように思い込んでおられる向きはまず、その思い込みをはずして心を白紙にするところからはじめなければ、悟りへの真の一歩は踏み出せないわけである。
Cに続く
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