柳は緑 花は紅

@物を有りのままに見るとは

柳は緑、花は紅、という言葉がある。悟りの境地を表す言葉として禅宗に伝えられている。
悟った人の眼には、柳は緑に花は紅に見えているという意味である。
柳が緑で花が紅いのは当たり前だが、それをこうしてわざわざ言っているところに、物を有りのままに見るということを軽く見てはなりませんよという、メッセージが感じられないだろうか。
同じような趣旨で、眼は横に長く鼻は縦に長いとか、日は東に昇って西に沈むとか、父は男で母は女なんてのまである。
ここまで来るといかにも人をからかっているような感が強いが、物を有りのままに見るという一番大切なことをさしおいて、それ以外のところに真理を求めることの愚かしさを皮肉っているようでもある。
ついでに自作の奴を披露させてもらえば、「唇は上下に開き、尻は左右に開く」なんてのはいかが。
さてそれでは、物を有りのままに見るということの真意を探ってみよう。ここでキーワードになるのが、絶対の今ということである。
結論から先に言うと、物を有りのままに見るということは、絶対の今に即して物を見るということなのである。なぜなら、物が存在している唯一の時間は絶対の今であるから。
たとい一万分の一秒のような微かな時間を単位としても、過去は既に無く未来はまだ来ていないことを想えば、そのことは明らかであろう。
もし絶対の今を逃して何かを見ているとしたら、物それ自体を見ているのではなく、想い即ち心に描かれたそれを見ているに過ぎないのである。具体的には、その対象にまつわる観念、思考、先入観、記憶、イメージ、フィーリングと言ったようなものである。それから、やや趣が異なるが、それに関する既存の知識やマニュアルなども含まれる。
絶対の今以外の時間に存在できるものなんて無いのだから、物を有りのままに見るということは、絶対の今に即して物を見ることとイコールに決まっている。
ちなみに、あなたはご存じだろうか。この絶対の今という瞬間が来ては去り、来ては去りするスピードたるや有限のものではないということを。今という今なる時は無かりけり、マの時が来ればイの時は無し……なんてウタもあるぐらいだ。
今というものを絶対的に精確に把握しようとすると、如何に凄まじい速さで走り去っているかが実感できるだろう。
さて、その無限速度とも言うべきスピードで去来し続ける絶対の今に即して物を見ようとすると、妨げになるものが一つある。それは、先ほど述べたことと関連するが、心の中の想いである。
想いの対象が見ている物に関係あるか無いかに関わらず、想いと名の付くものは例外なく全て、絶対の今に即して物を見ることの妨げになる。
何故かというと、何がしか想うためには、意識を見ている物からはずして、想いの方に向ける必要があるからだ。何かを想っているということは、意識がそっちに向いているということである。
そのような場合、たとい目玉に物が映っておろうとも、それを見ていることにはならない。その一例を挙げるならば、私はガキの頃、もの想いにふけりながら道を歩いていて、鉄製の柱にドタマ(頭)をぶつけたことがある。女の先生が笑いながら何かの薬を塗ってくれたっけ……。それはどうでもいいとして、だから、絶対の今に即しながら物を見つつ、同時進行でものを想うなんて芸当は金輪際不可能なのである。
もし仮にそんな芸当ができたとしたら、サーカスの前座ぐらいには使ってもらえるのではあるまいか。
「こいつぁーすげえや!」
「神業じゃん!」
てな会話が会場のあちこちに飛び交うことだろう。想いこそは、絶対の今に即して物を見ることを妨げる唯一の要因なのである。
てことは裏を返せば、次のようにも言えるわけだ。
物を見る時、想うことをしなければ、それは絶対の今に即して物を見ているということに他ならない。この命題は、ものを想うことの他に、絶対の今に即して物を見ることを妨げるものは何も無いという事実に裏付けられている。
これが分かれば、例えばネジリ鉢巻きなどして、絶対の今を逃すまい逃すまいと根性入れつつ物を見る必要はないわけである。見るものと見られるものとの間に想念を介在させさえしなければ、絶対の今に即して物を見ることは達成されているのだから。
(Aへ続く)
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メイキング オブ ディス
悟談ならぬ余談でやんす。なので、暇な人だけ読んでチョンマゲ。今お読みいただいている『柳は緑、花は紅』は記念すべき「悟談」の第一発目なので、これに関して何か書いておくのも悪くないかな、と……。実はこれを書いたのは大分前のことで、今世紀が始まった年だったかなと記憶している。その頃、文章の書き方が身についてなくて、文章を書くのがとても苦痛だった。今でも苦痛がないことはないが、その当時ほどではない。その当時よりは、文章を書くことに慣れてきたためであろう。文章を書くことに慣れるってことと、いい文章が書けるってことは別だとしても。
文章はいう間でもなく言語から成っているが、そのもとになるアイデアは私の場合(他人もそうかも知れないが)言語以前の何かモヤモヤっとした霞のようなものとして、湧いてくる。その言語以前の微かなものを言語という明確なもの、悪く言えば粗大なものに置き換える作業、簡単にいうと「言語以前のアイデアを言語化する作業」が、文章を書く上で一番難しく感じられるところである。
が、あくまでも私の主観だが、その作業を繰り返していると、脳の中にいつの間にか、言語以前のものを言語に置き換えるための機能っていうか、うまく言えないが回路みたいなものが、作りあげられて行くような気がする。そうとでも考えないことには、以前ほど文章を書くことが苦痛ではなくなったことの説明がつかない。人間の体ってうまくできてやがるなあ、と思う次第である。
昔書いた『柳は緑、花は紅』をこのサイトに載せるために添削しながら、四苦八苦しながら書いていた当時のことをなつかしく思い出している。