悟りへの道は心を脇に置くこと


@シンプルな悟りへの道

悟りの世界(真我の世界)は時間も空間も超えている、というのが世の覚者たちの一致した見方である。
その意味で、悟りの世界ほど途方もないものは無いとも言えるが、それを体現するための方法つまり悟るための方法として、彼らが我々に提示しているものはと言えば、おしなべてシンプルなものばかりである(シンプルと簡単とはイコールではないが)。例えば、「欲望と恐れから離れなさい」とか「有るがままに見よ」とか「今ここに在れ」とか「三べん回ってワンと言え」とか……最後のは違ってるかも知れません。
これらのシンプルさと、悟りの世界に関する描写の途方もなさとの間に、大きなギャップを感じておられる向きは少なくないであろう。
このギャップの大きさの背景には一体何があるのだろうか?
それを、これから明らかにしたい。

A悟りの世界を覆い隠しているのは心

まず、悟りたい方に押さえておいていただきたいのは、我々は悟りの世界を創りだすことはできない、という事実である。悟りの世界は我々が創りだす間でもなく、既に存在しているのだから。
では、悟るために我々にできることは何かというと、それを覆い隠しているヴェールつまり心を脇に置くことだけである。
悟りの世界を覆い隠しているヴェールは心なので、それを脇に置くと即ち静止させると、悟りの世界があらわになる。あたかも、濁っていた川の水が澄み切ると川底があらわになるように。
ここでは話の進行上、心と悟りの世界の関係を、濁った川の水と川底の関係になぞらえさせてもらうがもちろん、それ以外のものにでもなぞらえられないことはない。
例えば、カーテンと窓の外の景色の関係、雲と太陽の関係、積雪と路面の関係、フロシキとその中味の関係、陰毛と簑マラ(みのまら)の関係……挙げてったらキリがないが(最後のは分からんでもよかです)、これらの例えから、私が心と悟りの世界の関係をどのように捉えているか、お分かりいただけるであろう。

B悟りたければ心を脇に置け

より正確に申し上げると、心が静止していて(脇に置かれていて)、なおかつ眠ってない状態に自分を持ってゆくことが悟りへの道なのである。従って、ここに言う「心を静止させる」あるいは「心を脇に置く」には、「眠ってない状態で」という前提が暗黙のうちに含まれているので、以後そのようにお受け取りいただきたい。
もしもこの前提がなかったならば、心を静止させたり脇に置いたりすることは我々にとって、それほど難しいことではなくなる。夢を見ないで眠っている時の我々は正にその状態にあるわけだから。
ちなみに心の静止は沈黙という言葉で表すこともできるが、ある覚者がこんなことを言っているので紹介しておこう。
「沈黙の先にゴールが待っているのではなく、沈黙そのものがゴールなのだ」
切れ味がすばらしいってことで、私の心に残っている言葉の一つである。沈黙が、悟りを求める全ての人々にとってのゴールたり得るのは、沈黙のおとづれと悟りの世界があらわになることとの間に時間的なズレがないからである。それは例えば、川の水が澄み切ることと川底があらわになることとの間に時間的なズレがないのと同じようなもの。
真に沈黙できた時、我々は既に悟りの世界に居るということ、銘記しておいていただきたい。
沈黙の対極つまり心が騒々しい状態に我々がある時、あたかも濁った水のせいで川底が見えなくなるように、悟りの世界は見えなくなる。
もしもあなたに悟りの世界が見えてないとしたら、それはひとえに心が騒々しいためだと言える。
見えない川底を見えるようにするためには、川底そのものに働きかけるのではなく、もっぱら水を澄み切らせるための方法を講じるしかないがそれと同じように、見えない悟りの世界を見えるようにするためには、悟りの世界そのものに働きかけるのではなく、もっぱら心を静止させる(脇に置く)ための方法を講じるしかない。
もしもそこで、今述べたことの逆を行ったとしたら即ち、悟りの世界そのものに働きかけたとしたら(具体的な方法はさておくとして)、一体どんな結果が待ち受けているとお考えだろうか。
実は対象への働きかけは必ず心の働きを伴うので、そんなことをすればするほど心は騒がしくなり、よけいに悟りの世界は見えにくくなるのだ。それは例えば、川底を見えるようにするという目的のために川底をヘタにいじってしまうと、その分だけ水の濁りは増し、よけいに目的から遠ざかるようなものだ。努力が裏目に出るという点で両者は似ている。
ついでにここで、もう一つ釘を刺しておかねばならないことがある。仮に、その種の努力を止めて沈黙に入ることができたかに見えても、次のような想念がやってきたら全てはオジャンになってしまうのでご注意願いたい。
「沈黙によってもたらされる悟りって一体どんなものだろうか?」とか「もういい加減、悟りの世界が見えてもよさそうなものじゃないか」とか「もうすっかり私の準備は整っているのに悟りの世界は見えてこない、いつまで待たせる気なんだ!」とか「もう頼まん!」とか……。こういった想念もまた、悟りの世界を見えにくくしている心中の騒音以外の何物でもない。
そういうわけなので、悟りたい方は悟りのことは全く眼中に置かず、いかにすれば心を沈黙(静止)させられるか、という一点にのみ関わるべきである。言い換えると、悟りの世界そのものではなく沈黙をこそゴールとすべきである。

Cやるべきことは他にはない

「心を静止させてみたが、ちーとも悟れなかった」てなことをおっしゃる向きには、次のように申し上げておこう。
あなたが悟れなかったのは、心を静止させること以外にまだ為すべきことがあったからではなく、「まだ他に為すべきことがあるのではないか……」といった迷いやぐらつきがあったからに他ならない。
迷いやぐらつきがあると、心は真に静止することができない。その意味で、迷いやぐらつきもまた悟りの敵である。
従って例えばの話、「悟りなんか要らない、何が来たってあるがままの自分で受け止めるだけだ」てな覚悟を決めて落ち着いている人の方が案外、悟りを求めてソワソワしている人よりも悟りに近かったりする。あるいはまた、悟りの何たるかが分からずとも、分からないままの自分で行くんだと開き直っている時の方が案外、それをどうにかしようとしている時よりも悟りに近かったりする。
どちらの場合も、後者よりは前者の方が心が静止しているからである。悟りには、そういう逆説的なところがある。
心を静止させると悟りの世界があらわになる、ということは別に私が言い始めたことではないが、世の中にはまだ、そのことに対して懐疑的な向きが少なくないようだ。その証拠に、悟りを求めていながら心を静止させることとは逆のことにいそしんでいる人たちも少なからず居る。
察するに彼らはきっと、心を静止させた状態というものを想像してみただけで実際にモノにしたことがないかもしくは、心を静止させたつもりになったことがあるだけかの、どちらかなのだろう。その上で「そんなことで、何かが起こるわけはない」とか思ってるんじゃなかろうか。
いずれにしてもそんな方のために、『真我は垂直の次元に在り〈前編〉』では、心を静止させると、悟りの世界はどのようにあらわになるのか、ということを具体的に説明させていただいた。
そこで述べてあるように、心を静止させた時あらわになる悟りの世界はこの世界に対して「垂直方向」に存在している異次元の世界なのだが、意外なことにそこには、沈黙や静止といった言葉から受ける印象とは裏腹な側面もある。それは、爆発的な側面である。悟りが爆発に例えられることもあるのは、そのためだ。そう言えば、悟りが起こった時の消息を「無が爆発する」なんて言い方で表現した禅僧もおりましたっけ。
ここに言う「無」が悟りの世界(真我の世界)を指しているのはもちろんだが、悟りの世界がなぜそのような言葉で表わされるのかというと、実体が無いからではなく、通常の我々の認識にはかからない世界だからである。実体が何も無かったら、爆発もクソもないだろう。
とはいえ、悟りの世界は通常の我々の認識にはかからないという、そのこともまた前述のような懐疑を招く要因の一つなのかも知れない。
話を戻すが、その悟りの世界があらわになるのは繰り返し述べたように、我々が心を静止させた時に限られるので、次のように結論づけることもできる。
「悟るための方法」と「心を静止させるための方法」とはイコールである。

D方法は様々

心を静止させるための方法と一口に言っても、その種類は様々である。
目的は一つでもそこに到るための方法は一つだけじゃない、なんてことはこのケースに限らずよくある話で、ご存じかも知れないが例えば、潜在意識と繋がる方法なんてのもそうだ。それらを挙げていったらキリがないようなところがある。よく知られたものに「自律訓練法」とか眼を閉じて数を数える方法なんてのがあるが、専門的に調べたら百ぐらいは行くかも知れない。
悟るための方法がたくさんあるのは心を静止させるための方法がたくさんあることに由来するのであって、悟りそのものにたくさんの種類があるからなのではない。それは例えば、潜在意識と繋がるための方法がたくさんあるからといって、潜在意識そのものにたくさんの種類があるわけじゃないのと同じことである。
心を静止させるための方法は一つだけじゃないってことを、具体的に見てみよう。
例えば同じ禅宗でも、臨済宗では「公案」と称される人知では解けない問いへの取り組みが悟るための方法として前面に出されているし、曹洞宗では「只管打坐」と言って何も求めずに只座ることが悟るための方法として前面に出されている。
この二つは表面的には別物だが、突き詰めて考えると、どちらも最終的には心の静止を目的としていることが分かる。
またものの本によると、オーストラリアの先住民(アボリジニー)の間に伝えられている悟るための方法は、澄み切った青空を見つめそれと一体化することなのだそうである。これもまた、最終的な目的は心の静止にあると見てよい。『柳は緑、花は紅』でも述べたように、何かを見つめて一体化することは心を静止させる効果があるのだから。
細かいことを言うと本当は、見つめる対象は澄み切った青空じゃなくてもよいわけだが、澄み切った青空である方がその効果がでやすいってことはあると思う。なぜならそこには、他のものと区別するための境界線がなく、イメージや概念が形成されにくいから。
それからまた覚者の中には、取捨選択(選り好み)せずにモノを受け入れるということを提唱する人もいるが、これなんぞは、心を静止させてモノを見るということを別の言い方に置き換えたものと見なせる。
世に出回っている悟るための方法は言う間でもなくこれらの他にもたくさんあるが、どれであれもしそれが本物ならば最終的には、心を静止させる効果があることは間違いない。その共通点に眼を向ければ、それぞれの表面的な違いに混乱させられることはなくなるだろう。
中には、この方法のどこが心を静止させることに結びついているのか、と思うようなものもあるかも知れないが、深く掘り下げてみれば、そうなっていることがお分かりいただけるはずである。
《悟りへの道は心を脇に置くこと》おわり
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