苦しみから離れるヒント


前説

本題に入る前に、心の想いに関する話をしておきたい。
ご存じのように、我々がある特定のモノ(対象)に対して想いを抱いている時、そのモノは必ずしも我々の眼前に有るとは限らない。我々の眼前にそれが無い場合もある。つまり我々は、それが眼前に有っても無くても、それに対する想いを抱くことができる。
まず、それが眼前に無い場合のことを考えてみよう。
我々が眼前に無いモノに対して想いを抱いている時、我々が見ているのはモノ自体ではなく心の中のモノであることは、誰にとっても自明ですよね。我々はそこでは、心の中のモノを見ることを通してしか、それに対する想いを抱くすべを持たないのだから。
では、それが眼前に有る場合はどうだろうか。
そんな時の我々は、前述の場合とは異なり、モノ自体(眼前のモノ)を見ながらそれに対する想いを抱いているのだろうか。そのように考えておられる向きには意外に映ることだろうが実は、答えはノーなのである。つまり前述の場合と同じく、そこにおいて我々が見ているものもまた心の中のモノなのである。
だから我々は、モノが眼前に有る無いに関わらず、それに対する想いを抱いている時というものは常に、心の中のモノを見ている、ということになる。
このことは、「見ている」を「意識を向けている」に置き換えて考えてみると、飲み込みやすいだろう。「見ている」と「意識を向けている」はここでは同じである。
単に眼にモノが映っているだけでは真の意味においてモノを見ていることにはならない、ということを理解されておられるだろうか。単に眼にモノが映っているだけでは、モノを見ていると言うには値しないのである。その眼に映っているモノに意識が向けられた時はじめて、我々はモノを見ている状態になったのだと言える。
先ほどの話にピンと来なかった方は、それを踏まえた上で、次のことを試してみていただきたい。
果たして我々は、モノ自体を見ながら、それに対する想いを抱くことができるのか、それともできないのか。
キチンと試してみればお分かりになるはずだが、我々はモノ自体を見ながら、モノに対する想いを抱くことはできないものなのである。これは裏を返せば、我々は常に心の中のモノを見ることを通してしかモノに対する想いを抱けない、ということに他ならない。なので我々は眼前にモノが有る場合は、眼前のモノを一旦心の中に置いて、それを見ながらそれに対する想いを抱く、という手順を常に踏んでいることになる。
心の中に置かれたモノ、それは実物に似ているが実物そのものではないという点で写真みたいなものだとも言える。心の中に置かれたモノを仮に写真と呼ばせていただくならば、次のような物言いも成り立つ。
我々は自然の風景であれ、恋人の容姿であれ、実物を見ている時はそれに対する感想を持つことができない。それに対する感想を持つことができるのは、それの写真を見ている時だけである。
それではこれから本題に入らせていただくが、以上のことが理解できていると、話についてきやすいかと思う。

@向こうにあるモノをこちらに居る自分が見ているってホンマ?

悟りは想いを抱かずにモノを見ていることの中にある(ここに言うモノの中にはややこしいことに、想いというものもまた含まれるのだが、それについて解説しはじめたら訳が分からなくなるので、また別の機会に……)。
悟りをある角度から眺めると、そんな風に言うこともできる。
では、想いを抱かずにモノを見ることによって我々にもたらされる変化とはいかなるものであろうか。
一言で言うと、モノや自分が存在しているようには認識されなくなる、ということである。
裏を返せばそれは、想いを抱きながらモノを見ている間だけ、モノや自分が存在しているかのように我々には認識される、ということに他ならない。ということは我々にとって、モノや自分が存在しているかのように認識されるのは、想いを抱きながらモノを見ているせいだってことになるが、それは一体どうしてなのだろうか?
その答えは言えない。
なぜかっちゅうと、それも言えない。
なぜかっちゅうと、それもまた……遊ぶの止めやしょう、その疑問を解く鍵は次の事実に秘められている。
我々は想いを抱きながらモノを見ている時、モノ自体ではなく心の中のモノを見ている。これがなぜ疑問を解く鍵になり得るのかというと、まず第一の理由として、「向こうにモノがある」との認識がそこから発生する、というのがある。
よほど注意してかからないと見逃しやすいのだが、我々が「向こうに野茂が居る」じゃなくて「向こうにモノがある」との認識を持つのは心の中のモノを見た時であって、モノ自体を見た時では決してないのだ。その意味では、一つのすり替えが、そこでは行われていると言えよう。
ウソをつくな、とおっしゃりたい向きは僕の眼を見てよ……じゃなくて、試しにどんなモノでもよいから、何も想わずに見てみられるがよい。眼にモノは見えているにも関わらず、「向こうにモノがある」との認識はなんぼ息んでも発生しないことが分かるに違いない。ザマーミロっての。
第二の理由として挙げられるのは、「向こうにモノがある」との認識が発生するとそれに付随して、「向こうにあるモノをこちらに居る自分が見ている」との認識が発生することだ。ここでもまた、先ほどと同種のすり替えが為されているのを見逃してはならない。
すり替えとはもちろん、実物と心の中に存在するものとの同一視を指す。つまり前述のような形で「向こうにあるモノをこちらに居る自分が見ている」との認識が発生する時、我々が見ているのは実物の自分ではなくして心の中に存在する自分だ、ということである。
ではどうしてその時、「向こうにあるモノをこちらから見ている自分」が心の中に存在している(かのように見える)のかというとおそらく、次のようなツジツマ合わせが心の中で起こるためではあるまいか。
「向こうにモノがあることが分かるからには、それを見ている自分がこちらに居なければならない」
いずれにしてもここで肝心なのは、我々は実体としてのモノや自分ではなく、心の中のモノや自分を見て「向こうにあるモノをこちらに居る自分が見ている」との認識を持っている、という点にある。
そしてその「向こうにあるモノをこちらに居る自分が見ている」との認識が「モノや自分が存在する」との認識に繋がっているわけである。
想いを抱きながらモノを見ることが「モノや自分が存在する」との認識を引き出す経緯はこのようなものだが、それが人の意識に上りにくいのは、あまりにも短い時間の中で起こるためでもあろう。
またその経緯が、想いを抱かずにモノを見ることの中で起こらないのは言う間でもなく、その為の最初のきっかけ即ち「向こうにモノがある」との認識が封じられるからである。
想いを抱きながらモノを見るとモノや自分が存在しているかのように認識され、想いを抱かずにモノを見るとモノや自分の存在が認識されなくなる理由はこのようなものである。

Aこの世という夢

ここで一言お断りしておくが、モノを見る場合つまり視覚が働く場合に限らず、聴覚や嗅覚や味覚や触覚が働く場合にも当然、これまで述べてきたことは当てはまる。今は説明の便宜上、モノを見る場合のことだけを取り上げているに過ぎない。
ついでだが、以上のことに基づいてある突飛な推理をしたので、紹介しておこう。この宇宙に創造主が居るものと想定した上での推理なのだが、次のようなものである。
この宇宙の創造主はもしかしたら我々に、「モノや自分が存在する」との認識を持たせるために即ち夢を見させるために、五感だけではなく心をも与えたのかも知れない。
五感だけでは「モノや自分が存在する」との認識は発生しないことが分かれば私じゃなくても、そんな風に考えたくはならないだろうか。
もちろん、我々の心が前述のごとき目的のためだけにあるわけじゃないのは承知しているが、ある視点から眺めるとそんな風にも受け取れるってことである。
さてそれでは、これまでの話を踏まえながら、皆さんに今一度検討していただきたいことがある。それは我々が持っている「モノや自分が存在している」との認識の信憑性についてである。
ここまで読んでこられた方ならばおそらく、次のような結論にも奇異の念を抱かれはしないであろう。。
「モノや自分が存在している」との認識が我々の中に発生してもそれは、モノや自分が本当に存在していることの証明にはならない。言い換えると、我々の中になんぼ「モノや自分が存在している」との認識が発生したとしても、モノや自分が本当に存在しているとまでは言い切れない。
何故ならそのような認識が我々の中に発生するのは既述の通り、実体としてのモノや自分を見ることによってではなく、心の中のモノや自分を見ることによってであるから。
従って、「モノや自分が存在する」との認識の発生によって証明されるのはあくまでも、我々の心の中にモノや自分が存在している、というところ迄であって、それ以上のことに言及するのは行き過ぎなのである。
そうすると、避けて通れないのは次の問いだろう。
では結局のところ、最後まで突き詰めた場合、モノや自分は本当は存在しているのだろうか、それとも存在していないのだろうか?
結論から申せば、本当は存在していない。そんなん嫌や、そんなん嫌や……などと乳首つまんで、なんぼ体ゆすってわめいても、無駄である。ザマーミロ。
例えば、寝ている時に見る夢の世界はどれほど存在しているように見えても本当は存在していない、というのと同じような意味合いにおいて、そう言える。
では、モノや自分は本当は存在していない、ということを知的にではなく体験的事実として知るにはどうしたらよいかと言うと……
まず小さじ一杯のヘソのゴマを用意したまえ、というのは嘘で、実際にいかなる想いも抱かずにモノを見てみることに尽きる。それ以外に何があるだろう。
簡単ではないが真にそれができると、前述のような理由により、今まで幅をきかせていた「モノや自分が存在している」との偽りの認識が脇に置かれるのだが、それと同時にそれ以前には認識されなかった何かがあらわになる。あたかも覆いをペロッと剥がすとその下に隠されていたものが剥き出しになるように。何かというと、モノも自分も無い別の世界である。その時、「このモノも自分もない世界こそが真実の世界であって、今まで見ていた世界(モノや自分がある世界)は錯覚の産物であった」と分かる、知的にではなく体験的事実として。それが悟りだ。
さて、唐突だがここで、ビール瓶を思い浮かべてみて欲しい。ビール瓶と言えば必ず表面にラベルが貼り付けてあるものだが、誰かがいたずらをしてそこにヒビの絵を描き込んだとしましょうか。その絵が巧妙であれば一見したところ、ビール瓶に本当のヒビが入っているかのように見えることもあるだろう。見ている人の近くにではなく、ある一定の距離をおいた場所にそれが置かれていれば、より一層その傾向は強くなる。
仮にここに、そのビール瓶を一定の距離を置いた場所から眺めて「ビール瓶にヒビが入っている」と錯覚している人が居るとしましょうか。そうした場合、彼の錯覚を解くすべは一つしかない。言う間でもなくそれは、ヒビの絵が描かれたラベルを剥がすことである。そうすると、その下に隠されていた真実つまりビール瓶にヒビは入っていないという真実があらわになる。
これは真実を覆い隠しているものを剥がす(脇に置く)とその下に隠されていた真実があらわになる、ということの一例だが、前述の話もこれに類するものである。
悟りとは「モノや自分は本当は存在していない」という真実に目覚めることでもある。が、以上のようなわけでそれは常に、真実そのものに働きかけて真実を表に引っ張り出すという、直接的な働きかけの結果ではなく、真実を覆い隠しているものを剥がす(脇に置く)という、間接的な働きかけの結果もたらされるようになっている。

B苦しい夢から覚める

話は変わるがここで、これまで多用してきたモノという言葉に関して、少し説明を足させていただこう。
このモノという言葉は、他の言葉にも置き換えがきくのである。具体的には、出来事、状況、事の成り行き、環境……といったものが、それに当たる。
ご承知のように、モノという言葉も含めてそれら全てに共通しているのは、我々が生きて行く中で直面する何かを指していることである。我々が生きて行く中で直面するものを指す言葉なら何でも、これ迄用いられてきたモノという言葉に取って代わり得るのだ。従って、次のようにも言える。
我々は生きて行く中でいかなるものに直面しようとも、想いを抱くことなく見ることによって、見るものも見られるものも二つながら無い悟りの世界に出る(入る)ことができる。
さてこのフレーズには、我々の人生に待ち受けている様々な苦しみから離れるためのヒントが含まれている(苦しみといっても肉体的なものではなく、心理的な苦しみのことだが)。何故ならそれは、こんな風にも言い換えることができるからだ。
我々が生きて行く中で直面する苦しみが何であろうとも、その原因に対して想いを抱くことを止めれば我々は、苦しみの原因も自分も二つながら無い悟りの世界に出る(入る)ことができる。
ここまで読んでこられた方ならば、その裏には次のような事実があることを理解できるに違いない。
苦しみの原因は只それだけでは、我々を苦しめる力を持ち得ない。それが我々に影響力を持ち得るのは、それに対して我々が何かしら想いを抱いた時からである。何故ならその時から我々は、「苦しみの原因と直面している自分」という夢に陥るからである。
我々は眼前にあるモノに対して何らかの想いを抱くことにより、モノや自分が存在しているかのような夢に陥る、ということは既に述べたが当然のことながら、ここにおいてもそれは当てはまるってことである。
苦しみの原因に対して想いを抱くことを止めて、苦しみの原因も自分も二つながら無い悟りの世界に出る(入る)、というやり方は、そうした仕組みを逆手に取るものだとも言えるだろう。
以上、色々と小難しい物言いをしてきたが早い話が、何にも想わなきゃあ何にも無いのがこの世界じゃないか! ってことよ。
ここからは、オマケでやんす。苦しいことがあるにも関わらず何か取り組まねばならない仕事をかかえている人にとって前述のやり方は、もう一つの効果をもたらしてくれるだろう。
それは、仕事への没入力が高められる、ということである。仕事への没入力の高さは想うことの少なさに比例するものだから。

《苦しみから離れるヒント》おわり

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