苦しみから離れるヒント〈補足編〉

本論に入るミャーに(前に)、押さえておきたいことがある。
それは、心を脇に置くことによってあらわになる真我ってものは見る角度によって色々な捉え方が可能で、色んな風に説明できる、ということである。
「後ろベッピン、前見てガックリ」てな物言いがガキの頃、仲間内で流行っていたが、人間だってそうですよね。
本論では初めは、真我というものが、人生という名の映画の観客(見物人)みたいなものとして説明されているが最後のところでは、この世界に偏在するものとして説明されている。
悟りや真我に関する予備知識のない人がいきなりこれを読んだら、とまどわれるだろうな、とは思う。人生という名の映画の観客であるってことと、この世界に偏在しているってことと、どう結びつくんだろう、てな具合にである。これまでお届けしてきた「悟談」を順ぐりに読んでこられた方なら、両者の間に繋がりを見いだせるだろうけれども。
いずれにしても、どなたであれ、本論に進むミャーに理解しておいていただきたいのは、真我というものは、ある角度から眺めると、人生という名の映画の観客であり、また別の角度から眺めると、この世界に偏在する者である、という点である。
さて、人生は一本の映画に例えられることがある。
もしも私の人生が一本の映画だとしたら、その中で活躍する主人公に相当するのは私の心身だと言える。そして、それを見る立場にある観客に相当するのは私の真我だと言える。この人生において、活動する役目を持っているのは私の心身であり、それを「見る」役目を持っているのは私の真我であるから。
真我とは正に、この人生という名の映画を観客席から見ている観客みたいなものだ。
さて、皆さんにも覚えがおありでしょうが一般的に、どんな映画であれ始まって間もない時というものはまだ、観客は観客のままである即ち、「自分は観客であって、映画の中の住人ではない」という自覚を失っていない。
ところがそれが非常によくできた映画だった場合、時間が経つにつれ、映画の主人公と自分を同一視するに到る観客は少なくない。例えばの話、主人公めがけて飛んで来る矢があったりなんかすると、「キャッ!」とか言って、身をかわす仕草をする人だって中には居るだろう。
彼らとそっくりなのが、この人生において、心身と自分を同一視している人たちである。前者は自分が映画を見る立場にある観客だってことを忘れており、後者は自分が人生という名の映画を見る立場にある真我だってことを忘れている。どちらも、見られる側にあるものを自分だと思い込んでいる点では変わりがない。
ここにおいて、一つだけ確かなことがある。
それは、映画の主人公と自分との同一視であれ、(この人生における)心身と自分との同一視であれ、心というものが無かったならば起こり得なかった、ということである。そう言えるのは、同一視と名の付くものは全て思い込みの一種であり、思い込みは心の中で起こるものだからである。
ところで、心身と自分との同一視には金魚のフンみたく、あるものが付いて回る。それはアチラ(向こう)とコチラの区別である。
ご存じのように我々は、自分の心身から離れた場所をアチラと呼び、自分の心身に近い場所もしくはそれがある場所をコチラと呼んで両者を区別しているが、そもそもそういう区別が生じるのも元はといえば、心身と自分が同一視されているからに他ならない。
そして言う間でもないことだが、そのアチラとコチラの区別もまた、我々の心の中で生じる。我々が心を脇に置くと、アチラもコチラも無くなるのは、そのためである。
我々にとって、心を脇に置くことは容易なことではないが、一時的にそれを可能にする便法というものはある。それは息を止めることだ。体に良いことではないのであまりやるものではないが、我々が息を止めると、その間は心(想念)は自然に脇に置かれている。
だから、私の話に今ひとつピンと来ない、という向きは、試しに息を止めてみてその中で、アチラとコチラの区別ができるものかどうか、実験してみられてはいかがだろうか。そうすれば、できないってことがハッキリするに違いない。
話は変わるが真我に限らず、どんなモノにも複数の側面があるものだ。だから、あるモノを何かになぞらえようとする場合、そこに含まれている複数の側面の中からどれか一つ(または二つ)を選び、そこだけに着目しながらなぞらえるべき対象を考える、というやり方をしなければ上手くいかないことが多い。
私はここまでの話において、真我を人生という名の映画の観客になぞらえてきたが、このなぞらえ方もまたご多分にもれず、真我というものの一側面だけを表すものに過ぎない。
つまり真我には、そのなぞらえ方だけでは表現しきれない他の側面もあるってことだが、その中の一つには「この世界に遍在してる」という側面もある。
真我は、人生という名の映画の観客であると同時に、この世界に遍在するものでもあるのだ。
この二つの側面がどうしても結びつかない、とおっしゃる向きは補助的な手段として、世界大の大きさを持った目玉(見る働きの象徴)をイメージしていただくと良いかも知れない。
さて、真我がこの世界に遍在するものであるってことはつまるところ、真我には動いて行く先が無いってことである。そして動いて行く先が無いってことは、アチラとコチラの区別が無いってことに他ならない。そんな区別が可能なのは、自分というものが、この世界の一角に置かれていて動いて行く先がある場合に限られるのだから。
真我はこの世界に遍在するものであるがゆえに、真我においてはアチラとコチラの区別が無いのである。全領域が自分である時、どこにアチラとコチラの別があるだろうか。
そんな真我を我々は持っているわけだが、心というフィルターを通して世界を見ている間は、我々はどうしてもそのことを見失っている。
これまでの話からもお分かりのように、心はいつも我々に、自分がこの世界の一角に置かれた存在であるかのように錯覚させ、アチラとコチラの区別を作り出すのが仕事なのだから。
ちなみに、アチラとコチラの区別を作り出すってことは大きく言うと、空間を作り出すってことでもある。だから我々が、自分の周りを取り囲んでいてその中を行ったり来たりできる空間として認識しているものは実は、我々の心の創作物だとも言えるわけだ。

《苦しみから離れるヒント・補足編》おわり

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