真我は垂直の次元に在り〈中編〉


はじめに(前編のおさらい)

『信心銘捻提』」という古い禅書の中に、こんな言葉があるらしい(間接情報なので、そう申し上げておく)。
「尽十方界沙門(しゃもん)の眼睛(がんせい)」
尽十方界とは全宇宙のこと、沙門は僧のこと(意訳すると、僧である自分のこと)、眼睛とは眼の玉のこと。なので、全体の意味はこうなる。
「全宇宙が私の眼の玉だ」
悟りにおける意識の有りようを表現した言葉らしいが、その意味するところについては、前編を読まれた方には説明の必要はないであろう。が、おさらいの為にここで、敢えて一つだけ突っ込みを入れさせていただくならば、この言葉には真我における極めて重要な側面が網羅されてない。どんな側面かというと、この宇宙空間に対して「垂直方向」に存在している、という側面である。
真我というものについて、私は前編で、基本的に次の三つのことを申し上げた。
一つは、それには見る働きがある、ということ。もう一つは、それはこの宇宙(世界)に遍在している、ということ。さらにもう一つは、それはこの宇宙空間に対して「垂直方向」に存在している、ということ。
お分かりのように「全宇宙が私の眼の玉だ」という言葉には、前の二つは表現されているが三番目は表現されていない。と言ってもあれは詩なのだから、何から何まで全部表現しなきゃいけないってことはないのだけれども。
三番目を詩的な短い言葉で表現するとしたら「空間よりも深い」といったものになるだろうか。
さて前編のおさらいと言えば、もう一つはずせないことがありました。
悟りとはこの私が真我に気付くことではなく、真我が真我自身に気付くことなのだ、という部分である。
そう言えば、某禅僧(芝山全慶さんだったかな)は著作の中で、悟りをこんな風に説明しておられましたっけ。
「無が無自身に気付く不思議な転回」
ここでは真我という言葉の代わりに無という言葉が使われているわけだが、真我はなぜこのように無と言い代えられることもあるのだろうか。
それは真我というものは、我々の通常の認識力(感じるとか、味わうといったことも含めて)が及ぶ範囲つまり三次元空間の枠内には存在していないからである。決して、実体が何も無いからなのではない。
この事実と、前述の真我に気付くのは真我自身であるという事実は、悟りは私にできるものではないことの理由として表裏一体をなしている。

@聞くことも悟りの契機になる

前編では見ることに関する話ばかりをしてきたが、ここでは聞くことに関する話もしておこう。
眼を通して色や形を見る主が真我なら、耳を通して音を聞く主もまた真我でなのである。真我は色や形を見ている時は色や形と一体化しているが、それと同じように、音を聞いている時は音と一体化している。例えば、雨だれのポツリポツリという音を聞いている時はポツリポツリという音と一体化しているし、時計のコチコチという音を聞いている時はコチコチという音と一体化している。
このように真我というものは、色形を見たり音を聞いたりしている時は、それらを認識する者であると同時に、それらと一体化する者なのでもある。このように申し上げると、映画などで使われる一人二役という言葉を連想される向きもあるかも知れないが、この場合はその言葉は当てはまらない。この場合は、色形や音を認識する者とそれらと一体化する者とが二つに分かれているわけではないのだから。
真我においては、色形や音を認識していることの中にそのままそれらと一体化していることが含まれており、また逆に、色形や音と一体化していることの中にそのままそれらを認識していることが含まれている。この認識と一体化が融合した働きは真我に特有のものと言える。
真我のその働きを体現するためには我々は、モノを見ている時であれ音を聞いている時であれ、無心でなければならない。無心に見たり聞いたりしている時、我々は真我のその働きを体現することができ、場合によってはそこから、真我への気付きを意味する悟りに到ることもできるわけだ。
ちなみに、見ることを通してそこまで行った代表例としては、オシャカ様が明けの明星を見て悟られたエピソードがあり、聞くことを通してそこまで行った代表例としては、いにしえの中国の禅僧香厳(きょうげん)が庭掃除をしていた際、小石が竹に当たる音を聞いて悟られたエピソードがある。

A見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感触を得る、その全てに真我の働きあり

この世界に存在する色形や音のみならず、臭い、味、感触を認識する主もまた我々の真我に他ならない。が、世の中には、それらを認識するのは五感つまり眼、耳、鼻、舌、皮膚である、との見方もある。それに対しては、まず次の点を指摘しておこう。
情報を得るための道具と情報を認識する者とは区別されなければならない。ここに言う情報とはもちろん、色形、音、臭い、味、感触の五つを指す。そして、それらを認識するための道具とは、これもご承知のように、五感のことである。
我々にとって五感とはこの世界に存在しているものの情報を得るための道具であって、それらを認識する者なのではない。両者が区別されなければならないのは、例えばテレビとテレビを見る者が区別されなければならないのと同じことである。
ここに言う情報が五感によって我々にもたらされるのは事実だとしても、それらを認識するのはあくまでも真我という名の意識なのである。
さて、当然のことながらこの真我は、色形や音を認識する場合と同じように臭いや味や感触を認識する場合にもまた、認識されるものと一体化する。つまり真我は、臭いと一体化して臭いを認識し、味と一体化して味を認識し、感触と一体化して感触を認識する。
対象に関わらず、真我が何かを認識する場合はこのように必ず、認識されるものとの一体化を伴っている。これは、人によっては奇異に映るかも知れないが実際は、その方が理にかなっていると言える。
なぜなら真我が色形、音、臭い、味、感触をあますところなく認識するためには、それらと真我との間に微かな距離もあってはならないはずだから、言い換えると、両者の間に没交渉なところがちょっとでもあってはならないはずだから。この条件は、色形、音、臭い、味、感触と真我が一体化していてはじめて満たされる、という次第。

B無心を実現するには

「我々が無心になると(想うことを止めると)、見るものと見られるものは一体化する」
これを一つの法則として覚えておかれるとよいだろう。
本当は、「我々が無心になると見るものと見られるものは一体であるという事実があらわになる」とするのが正確ではあるのだが、我々の主観にはそのように映るので、そのように言わせていただいた。
もちろん、ここに言う「見る」は「聞く」「嗅ぐ」「味わう」「感触を得る」のいずれとも置き換えがきくのだが、今はそのことは横に置いておこう。
ところで、「逆もまた真なり」という言葉があるのををご存じだろうか。私の見たところ、その言葉の解釈は人によって微妙な差があるようだ。が、私の解釈では、ある法則の中の原因の部分と結果の部分を入れ替えても、それはそれで一つの法則として成り立つ場合にも、その言葉を当てはめることができるのではないか、と思っている。
どういうことかと言うと、例えば「風が吹くと桶屋がもうかる」なんて話があるのをご存じかと思うが、もし仮にですよ、その逆の現象つまり「桶屋がもうかると風が吹く」なんてことがあるとしたら(実際はあるわけないが)、その場合にも「逆もまた真なり」と言えるんじゃないかってことである。
仮にそういう解釈ができるとするならば実は、冒頭で取り上げた法則つまり「我々が無心になると見るものと見られるものは一体化する」という法則にも、この「逆もまた真なり」が当てはまるのである。要するに、「見るものと見られるものを一体化させると、我々は無心になる」とも言えるってこと。
「見るものと見られるものを一体化させる」ということは言い換えれば、「見られるものに成り切る」ということでもあるので、こう申し上げてもよいだろう。
「成りきりながらモノを見ると、我々は無心になる」
これも一つの法則として成り立つのだとすると我々は、成りきりながらモノを見ることを無心になるためのコツとして使うことができる。つまり我々は、無心を実現したかったら成りきりながらモノを見ればよいのである。
これは、無心を実現することそれ自体を直接的に狙うのではなく、無心によってもたらされる状態を先取りすることによって結果的に無心を実現するというやり方なので、ある意味「逆転の発想」とも言える。
物質の世界のことはともかく意識の世界では往々にして、このような形での原因と結果の入れ替えが可能である。
(Cに続く)
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