真我は垂直の次元に在り〈中篇〉


C真我でモノを見ている状態になる

以前テレビを見ていたら、生まれた時から人間に育てられているという猿が映し出されていた。
ナレーションによると、その猿は自分のことを人間だと思い込んでいるようだ。動物というものは生まれた時から自分を育ててくれた者を親と見なす傾向があるというから、そんなことがあったとしても不思議ではない。
ところでそういう猿って、高い木に登ったり、シッポで木の枝にぶらさがったりといった、猿なら当たり前にできるはずのことがちゃんとできるのだろうか。
なんぼ自分のことを人間だと思い込んでいる猿とて猿であることに変わりはないのだから、それぐらいのことはできて当然じゃないの、というのがおそらく大方の見方であろう。が、話の進行上ここでは敢えて、自分のことを人間だと思い込むあまり、そうしたことができなくなってしまった猿がいるものと想定してみたい。
もし仮にそんな猿がいたとしたら、そいつはどうしたら猿本来の能力つまり高い木に登ったり、シッポで木の枝にぶらさがったりする能力を取り戻すことができるだろうか。
催眠術をマスターして「今や私は猿であって人間ではなーい…」てな自己暗示をかけるってのも一つの手かも知れないが(そんなわけないか)、私が考えた答えはこうである。他の猿が高い木に登ったり、シッポで木の枝にぶらさがったりしているのを観察して、それを模倣する。
ここで少し模倣というものについて考えてみたい。模倣と言えば、次の二つに分けることもできるだろう。一つは、自分に備わってないものを獲得するための模倣、もう一つは、自分に備わっているものを顕在化させるための模倣。
お察しのように、くだんの猿が前述のような形で他の猿の動きを模倣したとすればその模倣は当然、後者に当たる。高い木に登ったりシッポで木の枝にぶらさがったりする能力は、猿の遺伝子を持つ者なら必ず備えているものであるから。くだんの猿にとっては、まだそれを顕在化できてないというだけの話である。
それに対して例えば、シッポの動きで感情表現をする能力(能力と言っていいのかどうか分からないが)なんてものは猿は生まれつきのものとして持っていない。いやひょっとしたら、細かく見ると持っているのかも知れないが、少なくとも犬ほど顕著なものではないに決まっている。だから、もし仮に猿が、シッポの動きで犬並みに感情表現できるようになろうとして、犬のシッポの動きを模倣したとしたらその模倣は当然、自分に備わってないものを獲得するための模倣ってことになる。
自分に備わってないものを獲得するための模倣と、自分に備わっているものを顕在化させるための模倣の違いがお分かりいただけたであろうか。両者は似て非なるものなので、それぞれの実践によってもたらされる結果にもまた似て非なるところがある。その最たるものは、前者によって身につけたものはどこまで行っても作り事の域を出ないのに対して、後者によって身につけたものは身につけた時から作り事ではなくなっている即ち本物になっている、ということである。
話は変わるが、我々の真我には、成りきりながらモノを見る働きが備わっている。
従って我々にとって、意図的に成りきりながらモノを見ることは見方によっては、真我の模倣をしていることにもなるわけだ。そして、この模倣が「自分に備わっているものを顕在化させるための模倣」に分類されるのは言うまでもなかろう。我々が意図的に成りきりながらモノを見ているといつの間にか、真我に備わっている成りきりながらモノを見る働きが顕在化するのは、そのためである。
この話は、くだんの猿が他の猿の動きを模倣しているといつの間にか、はじめから自分に備わっていた猿らしい動きが顕在化するという話と似ている。模倣が本物を引き出す呼び水になっているという点で、両者は共通している。
このようなわけで、意図的に成りきりながらモノを見ることは我々にとって、無心を実現するための方法であると同時に、真我でモノを見ている状態になるための方法なのでもある。無心の状態と真我でモノを見ている状態とは、とどのつまりは同じものなので、そうあって然るべきである。

D見ることと成りきることは一つ

前述のように我々の真我には、モノを見る働きとモノに成りきる働きが融合した形で備わっているが、後者にだけ着目すると、我々の真我は鏡のようなものだとも言える。鏡の役目は自分の前にあるものを映すことにあるが、映すということはある意味、成りきるということでもあるから。
鏡は、自分の前に赤い花があれば赤い花に成りきるし、自分の前に青ビョータンがあれば青ビョータンに成りきる。仮定に過ぎないが、もしもそんな鏡に、自分が映しているものを見る働きまで備わっていたならば、我々の真我をなぞらえるのに、これほど適したものはなかっただろう。
SFっぽい話になるが、真我の何たるかを強いて具体的なイメージで表すとしたら、自分が映しているものを見ることのできる鏡ということになるだろうか。
ちなみに、真我におけるモノに成りきる働きを説明するために、このように鏡を引き合いに出したのには実は訳がある。簡単に申し上げると、ここに言う「成りきる」には「感じる」というニュアンスは含まれていない、ということを、それによって示唆したかったのである。私の意図、伝わりましたでしょうか。伝わってない方はぜひ、鏡に映る赤い花や青ビョータンなどを思い浮かべて、私の意図を汲み取っていただきたい。
さて自分が映しているものを見ることのできる鏡なんて実際にはあるわけないが、そのことからもお分かりのように、モノを見る働きとモノに成りきる働きが融合して一つのものとして存在するなんてことは、物質の世界ではあり得ない話だ。が、意識の世界に眼を向けると様相は逆転する。
即ち意識の世界では、モノを見る働きとモノに成りきる働きが別々に存在することの方が、かえってあり得ないことなのである。意識の世界では、モノに成りきることなくしてモノを見ることはできないし逆に、モノを見ることなくしてモノに成りきることはできない。
モノに成りきることなくしてモノを見ることができないのは、何故だろうか?
それは、何かを見るためには見るものは見られるものと同じ時間と場所に存在していなければならないからだ。そうじゃなかったらどうして、何かを見ることなどできるだろう。
次に、モノを見ることなくしてモノに成りきることができないのは、何故だろうか?
それは、何かに成りきるためには、それが何であるか知っている必要があるからだ。そうじゃなかったらどうして、何かに成りきることなどできるだろう。
このように意識の世界では、見ることは必ず成りきることを伴っており逆に、成りきることは必ず見ることを伴っている。言い換えれば、両者は二つの異なる働きとして存在しているのではなく、一つの働きの二つの側面として存在している。
従って我々は、見ることを極めることによっても、成りきることを極めることによっても最終的には、見ることと成りきることが融合した同一の状態にたどり着くものなのである。
「ズボンの屁、右と左にグッドバイ」てな俳句が昔あったかと思うが、ここではその逆で例えばの話、ビデオを逆回ししたみたいに、右から上ってきた屁と左から上ってきた屁が最終的にある一点で落ち合い同一のものになるようなものだ。
その見ることと成りきることが融合した状態が、真我でモノを見ている状態であることは言うまでもない。
さてそれではここで、皆さんに秘密を一つお教えしましょう。
実は我々は、見ることを極めるのでもなく、成りきることを極めるのでもない、第三の方法によっても、真我でモノを見ている状態になることができるのだ。
第三の方法とは一言で言うと、意図的に見ることと成りきることを、どちらにも偏らない形で融合させることである。それは、見ることと成りきることという対立しあっているかのごとく映る二つの事柄の真ん中に意識を置くこと、もしくは両者のバランスを完全に取ることによって実現される。
、このやり方を頭の中だけで受け止めて実際に試すことのない人は、次のように思われるかも知れませんね。
見ることと成りきることのバランスを取ると、見ることと成りきることが半々に混ざり合った中間的な意識状態になるのではないか……。
こうした見方はおそらく例えば、絵の具の白い色と黒い色を半々に混ぜ合わせると灰色になるとか、ラジオの音量を最大値と最低値の中間に設定すると高からず低からずの音になる、といった事実からの連想によるものであろう。だが、それは違うのだ。ご存知ではないかも知れないが、意識の世界では物質の世界と違って、両極の真ん中には両極を足して二で割った中間的な領域が存在しているわけではない。
意識の世界では、両極の真ん中には両極を同時に含む領域が存在している。より正確に言うと、両極を同時に含んでいてなおかつ、両極を超越した領域ということになるのだが、今はそこまで理解していただかなくても構わない。取り合えず、次の一点だけ心に留めておいてもらえれば結構である。
「見ることと成りきることのバランスを完全に取ると、見ることと成りきることが融合した意識状態になる」
くり返しになるが、それは見ることと成りきることが半々に混ざり合ったどっちつかずの意識状態なのではなく、それぞれが極まった形で融合した意識状態である。
このようなわけで我々は、見ることと成りきることのバランスを完全に取るという方法によっても、真我でモノを見ている状態になることができるのだ。。
前に私は、真我でモノを見ている状態になるための方法として、意図的に成りきりながらモノを見ることを挙げたが、もうお気づきのように、より具体的な言葉に置き換えるとそれは、見ることと成りきることのバランスを完全に取る、ということだったのである。
このやり方は私のオリジナルなので、珍しく感じた方も多いかと思うが、もう少し詳しくこれについて述べたい。
(Eに続く)
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