真我は垂直の次元に在り〈中篇〉


E見ることと成りきることのバランスを完全に取る、という方法

この方法の実践上の眼目は、見ることと成りきることのバランスを完全に取る、という一点にあり、見ることと成りきることの一つ一つを極める必要はない。
即ちこの方法においては、見ることと成りきることの一つ一つは極まってなくても、両者のバランスが完全に取れてさえいれば、それでオーケーである。
ちなみに、見ることや成りきることを極めるとはどういうことなのか、ご存知だろうか。
見ることを極めるとは、心(想い)の中のモノではなくモノそれ自体を見る、という意味でありまた、成りきることを極めるとは、心(想い)の中のモノではなくモノそれ自体に成りきる、という意味である。だからこそ、見ることや成りきることを極めると心が脇に置かれるのだとも言える。
そしてもしも、見ることと成りきることのいずれかを極めることができたならば我々はもうその時点で、見ることと成りきることが融合した状態になっている。前者が極まったところには必ず、それと同じ「比重」の後者が伴っており、また逆に後者が極まったところには必ず、それと同じ「比重」の前者が伴っているものなのだから。
悟りに関心のある方ならご存知かと思うが、、禅宗などでは悟りに到るための方法として、モノを有りのままに見ることが勧められることもあれば、何かに成りきることが勧められることもある。どちらも悟りという同じものに到るための方法なのに、どうしてこうも色合いが異なるのだろうか、みたいな問いを持たれたことはないだろうか。それに対する答えは実は、前述のような理由により、どちらから行っても結局は同じところに辿り着く、というものだったのである。
とはいえ見ることや成りきることを、そこまで極めるのは一般にはとても難しい。見ることと成りきることのバランスを完全に取る、という方法は言ってみれば、その難しさを回避するための便法という意味合いがある。
この方法によって我々は、見ることや成りきることを極める難しさを回避できる。が、その代償として我々は、見ることと成りきることのバランスを完全に取る、という別の種類の難しさを受け入れなければならない。便法といえども、それなりの難しさはあるのだ。
見ることと成りきることを融合させるために、見ることや成りきることを極める難しさを取るかそれとも、見ることと成りきることのバランスを完全に取る難しさを取るか、その選択はあなたにゆだねられている。
さて、もしもあなたが後者を選択なさるのであればまずは、見ることに成りきることを伴わせる練習から着手していただきたい。
この練習の目的は取り合えず、見ることに成りきることが伴った状態がどんなものなのか、具体的に理解することにある。両者のバランスを完全に取るのは、その後の話である。
見る対象は何でもよい。花でも花瓶でも、机でも椅子でも、月でもスッポンでも。何ならそういう肉眼に映るものばかりではなく、呼吸とか、動いたり歩いたりしている自分の体とかでも構わない。
やってみればお分かりになるはずだが、見ることに成りきることを伴わせると、あなたの意識は見ているものとほとんど同じ場所に存在するようになる。言い換えると、あなたと見ているものとの距離がほとんど無くなる。成りきる、ということの意味合いを考えれば当然の結果だとも言えるが、それと同時にあなたは、想いがほとんど無くなる、という事実にも気づかれるだろう。
見ることに成りきることを伴わせると、あなたと対象との距離がほとんど無くなると同時に、想いもまたほとんど無くなるのである。これだけでも、かなりの前進と言えるだろう。
が、裏を返せばそれは、微小ながらもまだいくらかは想いが残っているということでありまた、見ることと成りきることが真に融合するまでには到ってないことを物語ってもいる。
両者が真に融合するところまで持っていくには、微調整とも言うべき、細かい意識上の作業が更に必要になる。そのために、次のステップがある。
次のステップとは、見ることと成りきることにかける「比重」を同じにすることである。言い換えると、あなたの意識を見ることの方にも成りきることの方にも、わずかでも偏らないようにすることである。ノミのタマキンをほじくり出すことにも似た細かい作業なので、ここへ来てめんどくさくなる向きもあるかも知れない。が、この作業は慣れると即できるようにさえなれるので、何とか頑張っていただきたいものである。
この作業はもちろん、見ることと成りきることのバランスを完全に取るためのものである。これに取り組む中であなたはきっと、早いか遅いかは別にして、見ているのでもあり成りきっているのでもあるような、見ることと成りきることの両方を兼ね備えたポイントに、自分の意識が収まるのを体験なさるだろう。
そこまで行ってはじめて、あなたの意識は見ているモノと全く場所に存在しており、見るものと見られるものとの間に時間的空間的な距離が全く無くなったと言うことができる。
そこにおいては想いが全く無くなるが、この想いが全く無くなるということが、見ることと成りきることが融合した証しであり引いては、真我でモノを見ている状態になった証しなのでもある。
従ってこれまでの取り組みによって、あなたが首尾よく真我でモノを見ている状態になれたか否かは、最後に想いが全く無くなったか否かをチェックすることによっても判断できる。
ついでだから書き加えておこう。実は、想いが全く無くなったか否かを判断する方法もまたあるのだ。ある意味、オマケみたいなものですけどね。
どんな方法かというと……、想いが全く無くなると時間が停止する、とだけ申し上げれば十分であろう。ここに言う時間とはもちろん、時計によって計られる物理的な時間のことではなく、心理的な時間つまり心に感じられる時間を指す。
我々の心に感じられる心理的な時間は想いの産物なので、想いが全く無くなると同時に停止するものなのだ。そしてその後に残るのは、絶対的な今の連続状態である。
最終的にそこまで行かないようだったら、あなたの取り組み方が万全ではなかった、ということに他ならない。
見ることと成りきることのバランスを完全に取る、という方法についての説明は以上である。本当はもう少し別の角度からの説明もできないではないが、取り合えず一般に公開するものとしては、これで十分だろう。というか、これで勘弁してチョンマゲって感じですね。
余談だが実は、大昔のことだが、悟りに関心をお持ちの方に、この方法をチラッと披露したことがある。反応はさんざんなもので「そんな聞いたこともないような訳の分からないやり方で、悟れるとは到底思えない」てなことを言われてお終いであった。
今振り返ると、そうなって当たり前だよな、という気がする。というのも、この方法を人様に披露するには、その前に最低限の押さえとして、理解していただくべきことがあったにも関わらず、その時の私はそれをはしょっていたからである。
理解していただくべきこととは具体的には、「悟るために我々がなすべきことは心を静止させることだけである(ここに言う静止とは自分の自覚の及ぶ範囲での静止を指す)」という一点である。
まずそのことを十分に説明してその上で、「心を静止させるための効果的な方法として、こんなものがありますよ…」という風に話をもって行かないと、誰だってあんな反応をするに決まっている。
ということは裏を返せば、心を静止させるだけで悟りは得られる、という一点がまだ十分に飲み込めてらっしゃらない向きには、この方法はピンと来ない可能性があるってことですね。
『柳は緑、花は紅』以来、ここまで積み重ねてきた話の数々はとどのつまりは、その一点を明確にするためにあったようなものだが、それで十分であったかどうかまでは確信が持てない。まだ十分でない、と思ってらっしゃる方には、これからもそういう話を続けて行きますのでご容赦を、と申し上げておきましょう。
最後に余計なお世話を言わせていただくが、そういうわけなので、ここで紹介した方法だけを受け売りで誰かに教える人がもしいたら(いないとは思いますが)、きっと「あの時」の私と同じハメになるでしょうね。
Fに続く
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