真我は垂直の次元に在り〈中篇〉


F「成り見る」って何?

「成り見る」という言葉は、「成りきる」という言葉と「見る」という言葉を合体させてこしらえた私の造語である。
直接的な意味は、元になった二つの言葉からもお察しいただけるように、成りきりながらモノを見る、というものである。従ってつまるところ、真我でモノを見る、という意味合いもそこには込められてる。
さて厳密さにこだわるならば、真我でモノを見る、ということの中には成りきりながらモノを見る、という側面の他にもう一つ、モノに対して「垂直」になる、という側面もまた含まれていることを見落としてはならない。
〈前編〉で説明したように、我々の真我はこの世界にある色々なモノを、この世界に対して「垂直」になった世界つまり垂直の次元から見ているのだから。
そして〈前編〉を読まれた方は覚えておられるはずだが、この二つの側面は表裏一体の関係にある。即ち、あたかもコインの表と裏のどちらか一方だけが単独で存在することはできないように、この二つの側面のどちらか一方だけが単独で存在することはできないようになっている。分かりにくい方は〈前編〉で私が申し上げたことを思い出していただきたい。
そこで私は、この世界と真我の関係を、一枚の写真とその上に立つガラスの立方体の関係になぞらえた。イメージしてみればお分かりいただけるはずだがそこでは、ガラスの立方体の底面が写真と重なっていることと、その本体が写真に対して垂直になっていることとは表裏一体の関係にある。これが分かれば、成りきりながらモノを見ることとモノに対して「垂直」になることとは表裏一体の関係にある、ということもまた、お分かりいただけるに違いない。
さて、成りきりながらモノを見ることと、モノに対して「垂直」になることとが表裏一体の関係にあるのだとすると、我々はそこから次のような結論を引き出すことができる。
成りきりながらモノを見るだけで(つまり、それ以外のことは何もしなくても)、我々はモノに対して必ず「垂直」になる。
言うまでもなくこのことは、ガラスの立方体の底面を写真と重ねるだけで、その本体は必ず写真に対して垂直になる、という事実と符合する。逆に言えば、モノに対して「垂直」になりたかったら我々は、成りきりながらモノを見るだけでよい、ということでもある。
その点を考慮すると、成りきりながらモノを見ることを意味する「成り見る」という言葉には、モノに対して「垂直」になる、という意味もまた間接的にだが含まれていることになる。
従って、こんな風に言うこともできる。
例えば、夕日を成り見ることは、夕日に対して「垂直」になることでもある。例えば、歩いている自分を成り見ることは、歩いている自分に対して「垂直」になることでもある。例えば、座っている自分を成り見ることは、座っている自分に対して「垂直」になることでもある。
具体例を挙げていったらキリがないが要するに、対象が何であれ成り見ることは、それに対して「垂直」になることでもあるわけだ。

G災難から離れる秘訣

繰り返しになるが、真我でモノを見ることの中には、成りきりながらモノを見る、という側面とモノに対して「垂直」になる、という側面とがあって両者は表裏一体の関係にある。なので、成りきりながらモノを見ることはそのまま、モノに対して「垂直」になる、ということを意味してもいる。
この、モノに対して「垂直」になる、ということは言い換えるならば、モノを離れる、ということでもあるので、極めて逆説的な物言いになってしまうが、成りきりながらモノを見ている時の我々はモノを離れてもいる、とも言えるわけだ。
私がここに逆説性を感じるのは、モノに着く要素とモノを離れる要素とが同時に含まれているからに他ならない。
難しいかも知れないが、この逆説性が飲み込めたらあなたは、悟りの核心に触れたことになる。知的にではなく体験的事実として、この逆説性にうなづくことができたならば、あなたの悟りは本物だと言い切ってもよいぐらいだ。
ついでだが、Eでご紹介したあの方法もきちんとやれば、そこまで行けるようになっているはずなんですけどね。もし、そこまで行けてない人がいるとしたら、ひょっとしたら、悟りとはこんなものであるはずだ、といった固定観念に邪魔されているのかも知れません。
それはともかく、悟りを開いた禅僧の言葉の中には、この逆説性を飲み込めてないと、真意にたどり着けないようなものが散見される。
例えば、あの良寛はこんな言葉を残している。
災難にあう時は災難にあいなさい。それが、災難を逃れる(離れる)秘訣だ。
前述したことを踏まえて、私流に意訳してみよう。
災難にあった時は災難の真っ只中に居る自分から眼をそむけず、それに成りきれ、そうすればそこから離れた境涯に抜け出ることができる。
ついでだが禅僧の中には、こんなことをおっしゃる御仁もある。
井戸の中に落ちた時、縄を用いずにそこから抜け出る方法がある。それは、井戸の中の自分に成りきることだ。
これは前の良寛の言葉と同種のものなので、解説の必要はないであろう。ただ、一つだけ付け加えておくならば、ここに言う「井戸」っていうのは文字通りの井戸って意味じゃなくて例えば、人生における八方ふさがりな状況などの象徴と考えた方がよいだろう。
余談だが私の見たところ、悟った人たちの中でも特に禅僧の中に、前述のような物言いをする向きが多い。この手の物言いは、禅僧の専売特許みたいなところがある。

《真我は垂直の次元に在り〈中篇〉》おわり

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