真我における不可分の関係


B真我体現への二つの道

我々の真我においては、現実と一体化している側面と現実から離脱している側面とが不可分のものとして備わっているので、その二つの側面のうちのどちらか一方を体現するだけで我々は、真我を全体的に体現することができる。
要するにどちらか一方を体現できたら、もう一方も自動的に体現できているってことである。その点を踏まえて、取り合えずここでは、真我の体現つまり悟りという同一の目的地に到るために、二つの入り口が用意されているものと考えていただいてもよい。
さて、私は時おり法事のために地方の実家に帰るのだが、その時いらっしゃる坊さんは曹洞宗の方である。それで法事の最中に、曹洞宗の開祖道元が著した著作の抜粋を皆で読ませていただくこともあるのだが、その中に次のような意味のことが書かれてあったのを覚えている(原文を暗記することには関心がないので、原文は書けません)。
「死ぬ時は死ぬことに成りきれ、そうすれば生死を離れることができる」
直面している現実と一体化すれば、そこから離脱することができる、ということの具体的な一例がここには示されている。道元の場合は、悟りへの入り口として、真我における「現実と一体化した側面」を体現することの方に重点を置いていたようだ。
同じ禅僧でも盤珪(ばんけい)の場合はどうだったかと言うと、ご存知の方はご存知のように、いわゆる「不生の仏心」を体現することを悟りへの道として提唱しておられた。「不生の仏心」の意味は、この現実世界に生まれてきたことがない真我、といったところだろうか。
彼によると、仏心つまり真我はこの世界に生まれてきたことがなく、それを体現することで悟れるのだそうである。彼の言う「不生の仏心」という言葉においては、真我における「現実から離脱した側面」が強調されている。
彼の著作はチョロッとしか読んだことはないが、私がそこから読み取った限りでは、その「不生の仏心」なるものは最終的には、今直面している現実と一体化する境地に帰結する。これは、真我においては、「現実から離脱している側面」と「現実と一体化している側面」とが不可分の形で備わっていることを考えれば、しごく当然のことだとも言える。
このように彼の著作からも、真我における前述の二つの側面は不可分の関係にあるってことが、読み取れるのである。
いずれにしても盤珪の場合は、悟りへの入り口として、真我における「現実から離脱している側面」を体現することの方に重点を置いていたようだ。
道元流よりもこちらの方が分かりにくいかと思うので補足しておくならば、それを体現するための具体的な実践方法の一つは、「現実世界における一切のものとの同一化を断つ」ことである。常識的に考えると、それを極めたら現実離れしてるだけの人間になりそうなものだが実際は、そうはならない。それを極めたら、自分の置かれている現実と正面から向き合い、それと一体化している境地もまた、同時に兼ね備わるものなのだから。

 Cここに言う「現実」とは

この世に生きてる我々にとっての現実が物理的な世界のものなら、死んであの世に帰った人間にとっての現実は霊的な世界のものである。
信じる人も居れば信じない人も居るだろうが、このように現実には、物理的な世界のものと霊的な世界のものと二種類あるわけだが、ここで使われている「現実」という言葉には、その両方の意味が含まれている。
そもそも霊的な世界といったものが本当に有るのか無いのか、というところに話を戻されると困るのだが、私が申し上げたいのは要するに、仮にそういうものが有ったとしても、悟るということはそういうものからさえも離脱することなんだってことである。
それから、もっと言うと本当は、ここで使われている「現実」という言葉は「体験」という言葉に置き換えても構わない。言葉自体の意味はもちろんそれぞれ違うのだが、そのようにしても文全体の意味は事実に反しないってことである。
従って、こんな風に言うこともできる。悟りの中に在る人は様々な体験と一体化していると同時に、そこから離脱してもいる。
重要なのは、ここに言う「体験」とは日常的な体験ばかりではなく、超常体験とか神秘体験といった呼び方をされる非日常的な体験をも含んでいる、という点にある。つまり日常的なものであれ、非日常的なものであれ、体験と名のつくものは全て、悟りにおいては離脱される定めにある、ということである。
これは、悟りそのものは体験ではない、ということを意味してもいる。あらゆる体験の外に出てしまうことを、体験と呼ぶわけには行かないであろう。といってもそれを分かった上で、説明の便宜上やむを得ず、悟りを体験として語ることはあるのだけれども。
悟りを何らかの体験と見る向きもあるようだが、そうした見方もまた、悟りに関するありがちな誤解の一つなのである。
いずれにしてもここでは、話を簡素にするために、「現実」という言葉の中に「体験」という意味も含めて話を進めたい。

D覚者判別法

悟りというものが、現実と一体化していると同時に現実から離脱してもいる状態であることは、実際にそうなってみるまでは何人たりとも想像がつくものではない。従って著作などで、たった一言でもそういうことを示唆する言葉を吐く人がいたら、他の箇所は調べなくても、その人の悟りは本物であると断定できる。そういうことを示唆する言葉、といって悪ければ、そういうことを知っていなければ吐けない言葉、と言い換えてもよい。
とはいえ、ここまでの話が人々に知られてしまった後では、この「覚者判別法」もあまり役に立たなくなるかも知れない。その理由は敢えて説明しませんけれども。
が、それはそれとしてこの「覚者判別法」は、自分の悟りが本物か偽者かを知るために使うこともできる。即ち、前述のような言葉を本心から吐ければ本物で、吐けなければ偽者ってことである。
Eに続く
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