真我における不可分の関係


E真我体現への第三の道

次に申し上げたいのは、「現実と一体化している側面」と「現実から離脱している側面」ばかりが真我における側面の全てではない、ということ即ち、更に別の側面が真我には備わっている、ということである。
その中の一つには例えば、「絶対の今に存在している側面」なんてのもある。では前出の二つの側面と、この「絶対の今に存在している側面」との関係はどうなっちゃっているのだろうか。
実は前出の二つの側面は共に、この第三の側面とも不可分の関係にあるのだ。
余計な話だがこれを読んで、恋愛における三角関係的なものを連想された方はペケですぞ。何故ならこれの意味するところは、真我における前述の三つの側面の内、どの二つを取っても不可分の関係が成り立つってことなのだから。従って包括的な見地から眺めると、このように申し上げることもできる。
「これら三つの側面全部の間に不可分の関係が成り立つ」。
ということは我々にとっては、これら三つの側面の内、どれか一つを体現するだけで他の二つの側面をも自動的に体現できる、ということに他ならない。
前に示唆しておいたことではあるが、不可分の関係は何も二者間だけに成り立つ関係ではない、ということをお忘れなく。
さて、それではここで、これまでずっと取り上げてきた二つの側面の中でも特に「現実と一体化している側面」の方に眼を向けていただきましょうか。
今取り上げた「絶対の今に存在している側面」との間に類似性が見て取れませんかね。両者の間に類似性が見て取れるのは、「現実が存在している唯一の時間は絶対の今である」という、両者を繋ぐ事実があるからだ。が、更に洞察力を働かせて眺めてみると、この事実は我々に、両者が不可分の関係にあることまでも示唆してくれている。何故なら、この事実から我々は、次のような結論を引き出すことができるからである。
誰であれ、現実と一体化している時は絶対の今に存在している、逆に、絶対の今に存在している時は現実と一体化している。
お分かりいただけるであろうか。
これはそのまま、真我における「現実と一体化している側面」と「絶対の今に存在している側面」が不可分の関係にある、ということの意味の説明にもなっている、ということを。この二つの側面が不可分の関係にあるということは取りも直さず、真我におけるもう一つの側面つまり「現実から離脱した側面」をそこに加えた三者間においてもまた不可分の関係が成り立つ、ということを意味してもいる。道理としては、そうなりますよね。
従って我々は、真我における「絶対の今に存在している側面」を体現できたら、他の二つの側面をも自動的に体現できるのである、言い換えると、前にご紹介した「覚者判別法」をクリアできるのである。
真我における「絶対の今に存在している側面」を体現すること即ち、絶対の今に居る状態に自分を持って行くこともまた悟りへの入り口たり得るのは、このような理由による。
ということでここに到って、悟りへの入り口は二つから三つに増えたわけである。

F真我にはたくさんの側面がある

さて本当は真我には、既にご紹介した三つの側面の他にもまだ、いくつかの側面がある。
どこかの国では数の数え方として、四以上は「たくさん」と言うそうだがその伝で行くと、真我にはたくさんの側面(顔と言い換えても良い)があると言うべきだろうか。そしてそれら全てが、これまでの流れに違わず、不可分の関係にあるのだ。真我に備わっている側面の中で、この不可分の関係にもれるものは一つとして無い。それは言い換えれば、真我には様々な側面があるものの、その中のどれか一つを体現するだけで他の全ての側面をも体現できる即ち、真我を全体的に体現できる、ということに他ならない。真我を全体的に体現することが悟りを意味することは、ご存知の通りである。
このようなわけで、覚者によって世に提示されている悟るための方法なるものは基本的に、真我に備わっている側面の中のどれか一つを体現する方法になっている。ちなみに、それらをきちんと実践すると心は脇に置かれるものなので、見方を変えればそれらは心を脇に置くための方法とも言えるのだが、これについては後でも触れさせていただこう。
いずれにしても、これまでの話が理解できれば、悟りへの入り口は何故一つだけではないのか? 更には、その入り口と入り口の間には何故逆行し合っているように見えるものもあるのか? といった疑問は氷解するに違いない。
そして自分にピッタリの入り口が見つかったら、迷うことなくそこへ入って行けるようにもなるはずだ。この迷いのなさというものはそれ自体が、我々を悟りに近づけてくれる要素なのでもある。
自分にピッタリの入り口をどうやって探したらよいか、ということについて申し上げるならば、ここで紹介されたものだけではなく、古今東西の覚者が残した説法なんかも参考にされたら良いのではないだろうか。
ついでだから、書き加えておこう。先ほど私は、絶対の今に存在している、ということを真我における第三番目の側面として取り上げたが、これには補足事項がある。
どういうことかと言うと実はこの、真我における「絶対の今に存在している側面」なるものは更に二つの側面にわけることも可能なのだ。その一つは、「未来を見ない、という側面」であり、もう一つは「過去を見ない、という側面」である。そしてこれら二つの側面もまた、不可分の関係にある。
従って我々は、未来を見ないことによっても、過去を見ないことによっても(たったそれだけで)、真我そのものを体現できる即ち、悟りに到れるものなのだ。ただし、ここに言う未来や過去とは、絶対の今から見た厳密な意味での未来や過去を指しているので、その点はご注意願いたい。
ここで少し、未来や過去を見ないってことの具体的な意味合いを、座禅中の人に当てはめて説明しておきましょうか。
未来や過去を見ない、ということの一般的な意味合いは自分の行く末を気にかけず、来し方を顧みない、ということになるが、座禅中の人にはそこに更に、個別的な意味合いが付け加わる。
座禅中の人にとって、未来を見ない、ということは「悟りを夢見ない」ということでもありまた、過去を見ない、ということは「境地を点検しない」ということでもある。
我々は、未来にあるであろうものを心の中に置くことによってしか、何かを夢見ることはできないしまた、過去にあったところのものを心の中に置くことによってしか、何かを点検することはできない。だから前述のようなことが言えるのだが、別の視点から突っ込みを入れておくならば、これら二つの行為は共に心を脇に置くことに反している、という観点からも悟りを遠ざけるものだと言える。
話を戻すがいずれにしても、前述の「絶対の今に存在している側面」なるものは「未来を見ない、という側面」と「過去を見ない、という側面」の二つに分解することが可能でなおかつ、この二つが不可分の関係にあるってことになると、悟りへの入り口は二つから三つに増えた、という先ほどの言葉はこう訂正しなければならなくなりますね。悟りへの入り口は二つから四つに増えた、と。
Gに続く
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