柳は緑、花は紅

A主客合一とは

さて、このようにして絶対の今に即して物を見ている状態が達成されると、意識にある変化が生じる。それは見るものと見られるものとの融合一体化である。即ち見られる物が向こうに在って、それをこちらから離れて見ているという形ではなく、あたかも見られる物のところまで意識が瞬間移動して、その物と渾然一体となったかのような感を呈するということである。
見るものと見られるものとの間に時間的なズレが無くなると同時に、空間的なズレも一緒に無くなってしまうのである。
悟りのまたの名とも言うべき、主客一体とか主客一如の境地とは、その辺の消息を表している。
難しい言葉を出してしまったが、その意味するものを確実に理解していただくためにこれから、日常生活の中で我々の身の上に時おり訪れる、ある種の体験についてお話するとしよう。
どんなものかというと、今言ったような意識状態に、ごく自然にさせられてしまうような出来事である。気づいてない方もおられるだろうが、我々の日常生活には、時としてそういう出来事があるものなのだ。
例えば、きたない話で恐縮だが路上でケンプン(犬糞)を危うく踏んづけそうになった場合などもそうである。あなたは路上で、ケンプンを踏んづけそうになったことがおありですかな。
おありでしたら、是非その時のことを思い出していただきたい。やなこと思い出さすね、なんてことおっしゃらずに。
おありでない方は、そういう状況をイメージしていただきたい。ケンプンの色ツヤ形などはご自由に。アレ、何だか楽しくなさそうですね。通夜じゃないんだから、ケンプン、ケンプン、ケンプンプン〜と楽しく行きましょうや(何のこっちゃ)。
さてそれでは、お尋ねしよう。その瞬間、あなたの意識状態はどのようになっているであろうか。
思い出してみて下さい。あるいは、想像してみて下さい。
おそらく、ほんのつかの間ではあるが、驚きのあまり全ての想いは停止しているのではないだろうか。あるいは、こんな風に言い換えてもよい。「あっ、ケンプンだ!」という想いが浮上する直前、全ての想いが停止している一時があるのではないだろうか。
そして、その瞬間というものは、視線がケンプンに突き刺さったようになっているのではないだろうか。まさに、視線が釘付けって奴である。
全ての想いが停止した中で物を見ている時というものは、前述のように、意識はまるで瞬間移動したかのようにその対象のところに在り、対象と一体化しているものだが、この話からその感じが飲み込めていただけたであろうか。
もう一つ例え話を。
誰でも覚えのあることと想うが例えば、路上でも畳の上でも良いのだが、何かがそこに落ちていることに気づいていながら、落ちているものが何であるか、直ぐには分からないことがある。落ちているものの色や形は見えているのに、その正体が分かるまで時間がかかることがある。
近づいてしげしげと眺めると、ボタンだとか花びらだとかイボイノシシの糞だとか、正体が判明するのだが、そうなるまでの間というものは、自然に想いが停止しているのではあるまいか。
正体が分かれば、それにまつわる観念やら思考やらイメージやらが湧いて来るものだが、正体が分かるまでは意識はもっぱら見ることに注がれているであろう。
そしてそこにあるのは、想いを持たずに物を見ているという状態であるはずだ。そのような時、先ほどのケンプンの場合と同じように、期せずして人は見るものと見られるものが一つになった主客一体の境地に入っているものなのである。
ケンプンの場合は、対象との出合いのタイミングが唐突であったことによって想いが停止させられたのに対し、このケースでは出合ったものの正体が不明であったことによって想いが停止させられたという違いはある。
が、原因の種類に関わらず、想いが全面的に停止した中で物を見るという状況が創り出されると結果的に、主客一体のサトリの状態が訪れることは同じである。
さて、これに関して思い出されるのは、潜在能力開発の大家として知られる故中村天風氏が開悟された時のエピソードである。
昔読んだ本の中に、氏が悟りを開かれるきっかけとなった、ある出来事について記されていた。それは、氏がインドかどこかの山奥で瞑想しておられた時に起こったという。
何の気なしに瞑想を中断して、フッと眼を開けると、一匹のトラが氏の顔をのぞき込んでいたというのである。お断りしておくが、トラはトラでも東京都葛飾区生まれでシャッポと腹巻を着けたあのトラがではなく、四つんばいになってて、シッポが付いてて、牙がはえてて、体に縞々模様のあるあのトラがである。びっくりしたか、コノヤロー!
まだピンと来てない方のために付け加えさせてもらうならば、猫の世界のチェ・ホンマン(K-1の超デカ選手)みたいな奴をイメージしてコワモテにしていただくと、当たらずとも遠からずなのだが。
で、氏はその時どうされたかと言うと、たった一言「照れるじゃねーか」……というのはもちろん嘘で、ただトラを見つめ返すことしかできなかったのだとか。あまりにも唐突な出来事だったので、怖いと想ういとまも無かったらしい。
その沈黙の中で、悟りは起こったという。
その辺の詳しい記述はもう忘れてしまったが、トラとの思いがけない接近遭遇が、想念停止した中で物を見るという状況を氏にもたらし、それが氏を悟りに導いたであろうことは想像に難くない。
当時の氏の胸中を察するに、恐らく、トラに成ってトラを見るといった主客一体の境地に、たくまずして入っておられたのではあるまいか。
でも、これなんぞは如何に悟りの契機になり得るとはいえ、我々からすると、ちーとも羨ましくない出来事ではある。
その意味では、次に取り上げる絶望的な事態も同類というべきか。絶望的な事態というものもまた、あまりお眼にかかりたくない代物だが、時として人に悟りの世界をかいま見させることがあるのだ。
例えば、事業が失敗するとか、不治の病にかかってしまうといったことがである。そうした事態もまた、人の全ての想いを断ち切ることがあるからである。
ただしその場合、例えば酒におぼれるなどして事態から眼を背けてしまうと、悟りの世界がかいま見えるところまでは行かない。それでは、想いの息の根は止められているかも知れないが、肝心の意識がよそ見してしまっているからである。
そのような中で、事態を直視するのは容易ではないのだろうが(誰ですか?事態をオ○○コだと思い込んじゃえば楽にできるよ、てなことをおっしゃるのは)、こと悟りにからめて言えば、それでは駄目なのである。
全ての想いが断ち切られた中にあって、なおかつ事態を直視しているような時にこそ、悟りへのスイッチは入り易いのだ。先ほどの中村天風氏の場合がそうであったように。
ついでだが、禅宗では公案と呼ばれる絶対的に不可解な問いが修行者に与えられるが、あれなどは正に、今申し上げたような状況を人工的に作り出すためのものだと考えられる。
絶対的に不可解な問いへの取り組みは、徹底すれば最終的には、想いが根絶されるところまで行ってしまう。
問題はその後だ。そこまで追い込まれてもなお、問いに背を向けなかったとしたら、どうなるだろうか。無心に問いを見つめているだけといった状態に、自然になれているのではないだろうか。
禅書を開くと、公案に関する話の中で、「全身全霊を挙げて問いに成り切れ」といったアドバイスがよくなされている。無心に問いを見つめている状態こそ、問いに成り切った状態に他ならないことは、もうお分かりであろう。
いずれにしても、これまでの話からも明らかなように、我々が日常生活の中で出くわす悟りの契機になるような出来事はおしなべて、何らかの形で一切の想念を断ち切らずにはおかないものとしてやって来る。
(Bへ続く)
            
TOP INDEX BACK NEXT