真我における不可分の関係


G真我におけるその他の側面

さてそれでは、これまでご紹介したもの以外では、真我にはどんな側面が備わっているのだろうか。二つ三つ挙げてみよう。
「あるがままに在る側面」
「モノを有りのままに見ている側面」
「常に貧乏ゆすりしている側面」
まさか三つ目をマジで受け取る向きは無いだろうが、前の二つに関してはスンナリと受け入れられた方が少なくないのではないだろうか。「あるがままに在ること」とか「モノを有りのままに見ること」とかは、「絶対の今に居ること」などと並んで、悟りへの道として人口に膾炙(かいしゃ)しているようなところがあるから。
お察しのようにこの二つもまた、真我における他の全ての側面と不可分の関係にあるのだが、そうなる理由の説明はもうここでは必要ないだろう。本当はそういうことは、知的好奇心を満たすことの役には立っても、悟りそのものの役に立つわけではないのだから。
悟るために必要なのはそんなことより、この二つも含めて、真我に備わっている様々な側面の中からどれか一つを選んで、体現してみることだけだ。
あるいは、こうも言える。その理由など、悟れば瞬時に分かるものなので(言葉以前のレベルにおいてだが)、悟る以前の段階で、是非とも知っておかなけりゃならないようなことでもない。

H真我の体現は簡単じゃない

ところで、前に私はこう述べた。真我は現実と一体化していると同時に、現実から離脱してもいる、と。
悟りの中には必ずその、真我における両側面を体現することが含まれているわけだが、そういう我々の想像力の埒外にあるような悟りが、「絶対の今に居ること」とか「あるがままに在ること」とか「モノを有りのままに見ること」と言った、一見簡単そうにも思えるようなことを通して得られるっていうのは、一体何を物語っているのだろうか。
現実と一体化していると同時に、現実から離脱してもいる状態なんてものは我々には金輪際イメージできないことを思えば、それを体現することの難しさぐらい誰でも察しがつくだろう。それが前出の三つを通して可能になるってことは裏を返せば、前出の三つを真に実践するのは実際は難しいってことに他ならない。その難しさをご存知ない方でも、そう考えねばツジツマが合わないはずである。
一般には、前出の三つは心の状態であるかのように捉えられている。だからこそ、それらを簡単なことのように思う向きも少なくないのだろうが、本当はそれらは、心を脇に置くことによってこそもたらされるのである。
何となれば我々は、心を脇に置くことなくしては、真の意味で「絶対の今に居ること」も「あるがままに在ること」も「モノを有りのままに見ること」もできはしないのだから。
これら三つを実践することの難しさはそこにある。否、これら三つも含めて、真我における全ての側面に同様の難しさがある。
つまり真我におけるどの側面も、心が脇に置かれるところまで行かない限りは、真に体現できたことにはならないのである。逆に言うなら、そのハードルさえ超せたら体現できてしまうのが、真我における個々の側面だってことでもあるのだが、難しいことには変わりがない。
世間では、前出の三つは特に、悟りに通じる道として、多くの人に取り上げられているようだが果たして、彼らの中の幾人がそこまで理解できているのだろうか。
いずれにしても前述のようなわけで、真我における個々の側面を体現することは結果的には、心を脇に置くことにも直結しているため、「心を脇に置くための方法」と呼べなくもない。
即ち、真我における個々の側面を体現することは表から眺めると、真我における全ての側面を体現することとイコールだが、裏から眺めると、心を脇に置くこととイコールなのである。
これって結局、悟りへの道は心を脇に置くことが全てだという、かねてからの私の主張を裏付ける形にもなっているのだが、お分かりいただけるだろうか。
そこまで思い至ることができた人には、座布団十枚あげたいものだ。ケチな野郎なんで、その時はもちろん、後で請求書送らせていただきますけどね。
             《真我における不可分の関係》おわり
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