真我は垂直の次元に在り〈後編〉


はじめに

真我は五感が捉えた物的なモノの認識者(目撃者)であると同時に実は、心の中で生じる一切のことの認識者(目撃者)なのでもある。
従って例えば、「真我って何?」てなことを我々が考えたりなんかしている時、その一部始終は真我に見られている。
また例えば、「真我とはおそらく、こういうものであろう…」てな自分なりのイメージを描いたりなんかしている時、その一部始終もまた真我に見られている。
また例えば、真我に関する情報や知識を求めて、本やウェブサイトを開いたりなんかしている時、その一部始終もまた真我に見られている。
また例えば、それらに触発されて、真我発見のための瞑想や修行にいそしんだりなんかしている時、その一部始終もまた真我に見られているし、修行の甲斐あって、「これが真我か…」と思えるような何かを発見したり感得したりなんかしている時、その一部始終もまた真我に見られている。
「えっ、じゃあトイレに入ったりなんかしている時も…」てなことを今思ったりなんかしているアナタ、しっかり見られてますよ真我に。
〈後編〉には、この手の話も出てきまっせ。

@真我は心の想いも認識する

真我は五感が捉えるモノの認識者(目撃者)であるばかりではなく、心の想いの認識者(目撃者)なのでもある。心の想いと一口に言ってもその内容は様々だが、ここでは話を分かりやすくするために、「嬉しい」「ハラが立つ」「哀しい」「楽しい」といった喜怒哀楽に絡むものを例として取り上げることにしたい。
五感が捉える色形、音、臭い、味、感触などを認識する主が真我なら、例えば「嬉しい」「ハラが立つ」「哀しい」「楽しい」といった心の想いを認識する主もまた真我なのである。
そして真我は、五感が捉えるモノを認識する時は五感が捉えるモノに成りきるように、心の想いを認識する時は心の想いに成りきる。即ち真我は、例えば、「嬉しい」を認識する時は「嬉しい」に成りきり、「ハラが立つ」を認識する時は「ハラが立つ」に成りきり、「哀しい」を認識する時は「哀しい」に成りきり、「楽しい」を認識する時は「楽しい」に成りきる。これは例えば、眼に映る夕日を認識する時は夕日に成りきり、耳に響く雨だれの音を認識する時は雨だれの音に成りきるのと同じことである。
このように真我は、認識の対象が物的な世界に属するモノであれ心的な世界に属するモノであれ、成りきりながら認識する、という点では変わりがない。そうじゃなかったら、おかしいですね。
それにしても心とは別に、心の想いを認識する者が自分の中に存在していようなどとは、真我をまだ発見してらっしゃらない向きには想いもよらないことではないだろうか。が、そんな方でも、我々は心の想いを認識できるという事実だけは否定できないはずである。我々は心の想いを認識できるという事実こそは、我々の中に心の想いを認識する者が存在していることの何よりの証拠だと言える。その心の想いを認識する者つまり真我は前述のように、心の想いに成りきる者でもあるので、中々発見されにくいのは確かだとしても。
このようなわけで、我々にとって心の想いとは言うなれば、五感が捉えるモノがそうでるように、真我という名の鏡に映る映像に過ぎない。映像に過ぎない、という言い方を敢えてするのは、映像の有無に関わらず、鏡は存在し続けるからである。
さて言うまでもないことだが、心的な世界は物的な世界と同じく縦横高さの三方向に広がっているので、私の言う「水平の次元」に分類される。そして、物的な世界に属するモノであれ心的な世界に属するモノであれ、対象を認識する真我の働きは常に私の言う「垂直の次元」から来る。
従って、五感が捉えるモノとそれを認識する真我の関係はそっくりそのまま、心の想いとそれを認識する真我の関係にも当てはまる。

A喜怒哀楽から離れる法

要するに、心の想いを成り見る(この言葉、覚えてらっしゃいますよね)ことは心の想いに対して「垂直」になることだってことである。
〈中篇〉で、モノを成り見ることはモノに対して「垂直」になることでもあると申し上げたが、このモノという言葉の中には実は、心の想いも含まれていた、という次第。
心の想いを成り見ることはそれに対して「垂直」になることでもある、というのは具体的にはこういうことだ。
例えば、「嬉しい」を成り見ることは「嬉しい」に対して「垂直」になることでもり、「ハラが立つ」を成り見ることは「ハラが立つ」に対して「垂直」になることでもあり、「哀しい」を成り見ることは「哀しい」に対して「垂直」になることでもあり、「楽しい」を成り見ることは「楽しい」に対して「垂直」になることでもある。
そして〈中篇〉で述べたことの繰り返しになるが、それらに対して「垂直」になることは、それらから離れることを意味してもいる。
一般に我々は、ポジティブな想いが過ぎるとのぼせやすく、ネガティブな想いが過ぎると落ち込みやすいものだが前述のようなわけで、ポジティブな想いが来てもネガティブな想いが来ても、ひたすら成り見ることを心がけておれば我々は、それらのものに左右されなくて済む。
このように申し上げると中には、ポジティブな想いはともかくネガティブな想いを成り見るのは御免こうむりたいという向きもあるだろう。私自身そういうところがあるのでお気持ちは分かるのだが、心にネガティブな想いが湧いた場合でも、だまされたつもりでそれを成り見るべく努めてみられたい。見たくもないし、成りきりたくもない、なんてことはおっしゃらないで。
そうすれば、早い遅いは別にして、その効果のほどを目の当たりにされる時が来るに違いない。
そう言えば仙涯という方だったような気がするが、いにしえのある高名な禅僧は死の間際に弟子たちに向かって、こう言ったらしいですね。
「死にともない、死にともない(死にたくない)」
側にいた人がそれに対して「あなたほどの人が、そんなことを言うなんて情けないじゃありませんか」てなことを言うと、くだんの禅僧は「ほんまに、ほんまに」と答えたのだとか。
このエピソードが後世の悟った禅僧によって取りげられる時は決まって、くだんの禅僧をくさすのではなく逆にほめる形になっているのをご存知だろうか。ほめる形になっている理由を知る鍵は、ネガティブな想いが心に湧いた場合でもそれを排除せず成りきってしまうのが真の悟りだという点にある。即ちこのエピソードによって、くだんの禅僧の悟りが本物であったことが証明されている、ということに他ならない。
ここで、くだんの禅僧が「死にともない」と言った時の境地を解説しておくならば、彼は「死にともない」に成りきれていたが故に、「死にともない」から離れることもまたできていたのだと言える。「死にともない」の後に続く「ほんまに、ほんまに」という、自分のことをまるで他人事のようにアッサリと言うセリフにも、それが出ている。死に臨んで「死にたくない」という人はもちろん、くだんの禅僧以外にも居ることは居るが問題は、それに成りきった上で言っているのかどうか、という点にある。同じセリフを吐いても、その中身までが同じだとは限らないのだ。
ついでだが、世に名の知れた禅僧の身でりながら、死の間際にあんなセリフをためらいもなく言えた彼の心の中はきれいだな、と私は思う。何故なら、こんなことを言ったら自分の評価が下がるのではないか、と言った自分の名誉へのこだわりが、微塵もそこには感じられないからである。自分の名誉を重んじて、「死など屁でもないわ!」と言おうと思えば言えたはずなのに、そうもしなかった彼はさすがだ。
Bに続く
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