真我は垂直の次元に在り〈後編〉


B瞑想中の体験もまた鏡像である

心の世界には最も浅い層から最も深い層にいたるまで幾つもの層があるとされている。その層の数が具体的に幾つあるのかってことについては層の区切り方にもよるので、一概には言えないのだけれども。
心の世界における層の区切り方が必ずしも一通りじゃないのは例えば、虹の色の区切り方が必ずしも一通りじゃないことにも似ている。が、それよりも、ここで問題にしたいのは次のことである。
真我を発見するためには心の世界に深く入って行かねばならない、と思い込んでおられる向きが世間には少なくない。言うまでもなくそうした思い込みは誤解なのだが、その背景にあるのは、我々は肉体の他には心しか持たない、という固定観念ではないだろうか。
そういう固定観念があると人はどうしても、心の世界に深く入って行ったところに真我が存在しているかのように思い込みやすい。そこ以外に、真我が存在していそうなところが見当たらないものだから。
が、ここまで読んでこられた方は既にご承知のように、真我は心の世界に深く入って行ったところに存在しているわけではない(だからといって、心の世界に深く入って行くことが無意味だと申し上げているのではないこと、お忘れなく)。もっと言うと、真我は心の世界とは別の場所に存在している。心の世界とは別の場所に存在していてなおかつ、心の世界で起こることの一部始終を鏡のように映しながら見ている者、それこそが真我なのだ。従って、我々が心の世界で出会ったり発見したりするものは何であれ、十把ひとからげに真我という名の鏡に映る映像だってことになる。真我という名の鏡に映る映像が、何で真我なんかであるだろうか。
ところで、心の世界に深く入って行くための手段としてよく知られているものに瞑想というものがある。
仮に心の世界が十の層で成り立っているとした場合、例えばその中の第七番目の層とか第八番目の層とか、あるいはもっと深い層とかにでも、我々は瞑想への取り組み方次第では入って行くことができる。
ものの本によると世の中には、瞑想が深まるにつれて超常的な体験をなさる向きもあるようだ。例えば、隣の部屋で針が落ちる音を聞くことができるほど聴覚が鋭敏になるとか、未来の出来事を映像で見たりとか……。瞑想でそこまで行ける人は稀だろうが、瞑想中に普段の生活では味わえないような恍惚感や万物との一体感といったものを体験なさる方の数となると結構多いのではないだろうか。だが我々は、今挙げた例も含めていかなる体験を瞑想中にしようとも、次の点だけは見落とさないようにしておかねばならない。
瞑想中に体験されることは何であれ、その内容に関わらず真我という名の鏡に映る映像であって、真我の体現(発見でもよいが)を意味する悟りそのものとは関係がない。
ある意味こきおろしているようにも見える言い方かも知れないが、このように申し上げるのは世の求道者に、瞑想中の体験と悟りとを結びつけてもらいたくないがためである。禅宗では前述のような体験を魔境という強い言い方で斬って捨てることもあるが、逆に言えばそうする必要があるほど、前述のような体験は悟りと結びつけられやすい、ということではないだろうか。個人的には魔境という言い方は、言葉として強すぎるのは分かるが、一般論として用いる分には悟りに対する誤解への中和剤になっていいんじゃないか、と考えているのだけれども。
瞑想者の中には、前述のような体験が悟りとは関係ないことを知った上で、「でも自分は、こういうのが好きなんだ」という方もおられよう。そんな方に対して、どうのこうのと申し上げる資格までは私にはない。悟りと関係あるか否かで、人様のやっていることの価値を決めるのは行き過ぎだとさえ思う。私にできるのは、それらは真我の体現を意味する悟りとは関係ない、という客観的事実を指摘するところまででしかない。
いずれにしても、ここで銘記しておいていただきたいのは次のことである。
真我とは瞑想中の体験を鏡のように映しながら見る者、別の言い方をするなら、瞑想中の体験を成り見る者のことだ。真我とは喜怒哀楽であれ、瞑想中の体験であれ、心の世界で起こることの一切を成り見る者なのだ。

C瞑想の深さと真我の体現は関係ない

瞑想の深さを計るモノサシ(道具としてのモノサシ)なんてものがこの世の中にあるわけはないが、仮にそういうものがあるとしたら、真我はそのモノサシのメモリが並んでいる方向に対して垂直方向に存在していることになる。真我は我々の瞑想状態を「垂直の次元」から成り見る(認識する)立場にあるのだから。
ご存知のように我々は、モノサシのメモリが並んでいる方向に対して垂直方向に在るものにモノサシをあてがうことはできない。これはモノサシの種類に関わらず当てはまることなので当然のことながら、瞑想の深さを計るモノサシを真我に対して用いることはできない。ということは、たとえ他人の瞑想の深さを読み取る能力を持つ者がいたとしても、その能力だけを以ってしては、真我を体現できている人とそうでない人の区別はつかない、ということである。瞑想の深さを計る尺度と真我を体現しているか否かを計る尺度とは違うのだ。
さて前にも述べたように、心の世界が幾つの層で成り立っているのかってことは見方によるのだが、ここでは仮に心の世界が十の層で成り立っている、ということにしておこう。そうした場合、瞑想の深さは十のレベルに分けられることになる。瞑想中、我々が心の世界の何番目の層に居るかということはそのまま、我々の瞑想の深さがどのレベルにあるかということに直結しているわけだから。
で、その一つ一つを浅い順にレベル1、レベル2、レベル3……という風に呼んでいくとすると、瞑想によって我々が到達できる深さの極限は言うまでもなくレベル10ってことになる。
その伝で行くと、全ての瞑想者の理想はこのレベル10に到達することであるに違いない。それはよいのだが忘れちゃならない大事なことは、レベル10で何を体験したとしても、それは真我の体現を意味する悟りには結びつかない、ということである。そう言い切れるのは、真我は瞑想中の体験を成り見る(認識する)側だからに他ならない。真我は瞑想中の体験を成り見る(認識する)側で、瞑想中の体験は真我に成り見られる(認識される)側だ。前者と後者が別物なのは例えば、テレビ画面やスクリーンの映像とそれを見る人が別物であるのと一緒である。
この図式は、瞑想の深さがレベル9以下の場合でももちろん変わらない。即ち真我は、我々がレベル1からレベル10の間のどこにいようとも常に、そこでの体験を成り見る側にある。従って、こうも言える。
我々は、レベル1からレベル10の間のどこに居ようとも、そこでの体験を成り見る側に回ることによって真我を体現することができる。
おそらく世の求道者の多くは、こんな風に思っておられるのではないだろうか。真我を体現するためにはレベル10に向かって進まねばならない。だが真実は前述の通りであり、真我を体現するために我々に求められるのは、レベル10に向かって進むことでもなければレベル10にたどり着くことでもない。真我を体現するために我々に求められるのは、自分がどのレベルに居るかに関係なく、そこでの体験を成り見る側に回ることなのだ。即ち、そこでの要点は成り見ることそれ自体に尽きており、成り見る対象は何でも構わない、という次第。
最後に一つ補足させていただくが、瞑想という言葉の定義には幅があって、人によってはこの言葉を、真我を体現している状態を表すためにお使いになることもあるようだ。
Dに続く
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