真我は垂直の次元に在り〈後編〉


D心の中を成り見る側に回れ

喜怒哀楽や瞑想中に体験されるものを成り見るのが我々の真我なら、我々が何かを理解した時、その理解したことを成り見るのもまた我々の真我に他ならない。即ち真我は、喜怒哀楽であれ、瞑想中の体験であれ、何かについての理解であれ、心の中で起こる一切のことを成り見る立場に置かれている。そんな真我があればこそ、我々は心の中で起こる様々なことを認識できるわけである。
この図式は、我々の理解したことが真我の何たるかに関わるものであった場合でももちろん当てはまる。従って、面白いと言えば面白いのだが、こういうことになる。
我々が本を読むなどして、どれだけ真我の何たるかを理解したとしても、真我そのものはあくまでも、我々が理解したことを成り見る側にある。これは例えば、我々が瞑想などをして、どれだけ真我の領域に近づいたり達したりしたつもりになろうとも、真我そのものはあくまでもそこでの体験を成り見る側にある、というのと同種の事柄である。
だとすれば我々にとって、真我の体現を意味する悟りに到るための手立ては、心の中で何があっても、それらを成り見る側に回ることしかない。
ところで禅宗では、悟りに到ってない状態のことを「迷い」という言葉で表すこともある。悟りに関心のある者が一番知りたいのは、如何にすればその迷いを離れて悟りに到ることができるのか、ということなのだろうけれども、悟った禅僧らはそれについてどう述べているかというと全ては、「迷いに成り切れ」の一言に尽きる。もちろん個々の表現方法の違いというものはあるのだが、言おうとしていることをつきつめたらその一言に収まってしまう。
要するに、迷いの中にある時は迷いに成り切るのが悟りへの道だ、ということなのだが、ここに言う「迷いに成り切る」を「迷いを成り見る」に置き換えて考えてみれば、ここまで読んでこられた方は「なるほど」と思われるに違いない。
迷いに成り切ること即ち、迷いを成り見ることが悟りに直結している理由は、悟りとは真我の体現であり、真我とは迷いも含めて我々の身の上に起こる一切のことを成り見る者であるからに他ならない。
真我は既に我々の中に存在しているので、我々は真我と全く同じことをすることによって即ち、具体的に申せば、迷いも含めて自分の身の上に起こる一切のことを成り見ることによって真我を顕在化させることができ、ひいては真我を体現することもできる、という次第である。もし仮に我々の中に、全てを成り見る働きを持つ真我というものが無かったならば、我々がいくら自分の迷いを成り見るべく努めてみても、そういう結果が得られることはもちろんない。
このようなわけで、迷いを悟りに変える手立ては極めて逆説的なのだが、迷いそのものに手をつけて取り除こうとしたり、変えようとしたりすることではなくて、ただ迷いに成り切ること即ち、迷いを成り見ることだけなのである。
さてこうしたことからもお分かりいただけるように、悟りというものは結局のところ、例えばA点からB点へ、B点からC点へ、というように水平方向に前へ前へと進んで行ったその果てに待っているのではなくて、今自分が置かれている場所に立ち止まり、今の自分を見つめ、今の自分に成り切ることによって見出される何かだと言える。今自分が置かれている場所に立ち止まったら、ずっとそこに居るままで終わってしまうのではないか、と考える人は多いことだろう。ところが実際はとても不思議なことに、物的な世界ならぬ心的な世界においてはそうはならないのである。
心的な世界においては我々は、今自分が置かれている場所に真に立ち止まることができたら、言い換えると今の自分を成り見ることができたら自動的に、「垂直方向」に上昇するものなのだ。物的な世界のことに例えるならば、まるで頭上のUFOにでも吸い上げられるみたいにね。いや、この例えがふさわしいかどうかは自信はないが要するに、我々人間が路上の人だとすると、悟りの世界は前方に在るんじゃなくて、上方に在るんだということ、そして、上方に移動したかったら今居る場所から動かず、今の自分を成り見ることが必要なんだってことである。悟りの世界への行き方はやっぱり不思議としか言いようがない。
Eに続く
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