心を超えたもの


@それは第四の意識とも呼ばれる

心の世界をおおまかに見ると、顕在意識(我々が日常生活の中でアレコレ考えてる時の意識)という浅い層と、その下に隠れている潜在意識というより深い層に二分することができる。が、もう少し細かく見ると、顕在意識よりも深い層にあるとされる潜在意識自体もまた浅い層と深い層に二分することが可能で、そうした場合、後者は特に深層意識と呼ばれることもある。私のうろ覚えの知識によるとそれは無意識とも呼ばれるみたいだが、ここでは深層意識という呼び名で統一しておきましょう。
このようなわけで心の世界は層の浅い順に、顕在意識と潜在意識と深層意識の三つに分けることも可能だが、ヨーガやタントラで゜は、その三つの心の状態のそれぞれに対して独特の言い表し方があるので紹介しておこう。
ヨーガやタントラでは、顕在意識のことは、我々が眠りから覚めて活動している時の心的状態という含みで「目覚め」と呼ばれ、潜在意識のことは、我々が夢を見ながら眠っている時の心的状態という含みで「夢見」と呼ばれ、深層意識のことは、我々が夢を見ないで眠っている時の心的状態という含みで「眠り」と呼ばれている。が、私が最も重視したいのは、ヨーガやタントラではそれだけにとどまらず、それら三つの心の状態とは別に、心の世界に属さない意識の存在が認められていることだ。ご存知の向きもあろうかと思うが、それには第四の意識という呼び名がつけられている。
ちなみに、この心の世界に属さない意識のことは、タントラならぬ仏教の一派(天台宗でしたっけ)では第九識(アマラ識)と呼ばれている。「唯識論」では、顕在意識は五感の次に位置づけられる意識というところから第六識と呼ばれ、それに続く潜在意識は第七識と呼ばれ、深層意識は第八識と呼ばれるが、第九識という呼び名はそれを受けてのものだと言える。即ち第九識という呼び名には、第六識と第七識と第八識のいずれにも属さない意識という意味がある。第六識と第七識と第八識のいずれにも属さない意識ってことは言い換えれば、心の世界に属さない意識ってことである。
前出の第四の意識と言い、この第九識と言い、こういう言葉が昔からあったってことは、心の世界に属さない意識の存在は昔から知られていたってことの裏づけになっている。我々の中には心の世界に属さない意識がある、というのは決して私だけが言っているホラ話ではないのだ。
さて、悟りを追求しておられる方々にまず押さえておいていただきたいのは、我々の中には心の世界に属さない意識がある、という事実である。悟りとは真我の発見だが、この心の世界に属さない意識こそが悟りにおいて発見される真我に他ならないのだから。真我とは前出の、第四の意識とも第九識とも昔から呼ばれてきた心の世界に属さない意識のことなのだ。
それが分かってないと人は往々にして、心の奥深い層に真我が存在しているかのように思い込みやすい。人の想像力には限界というものがあって、自分だけで考えていると、そこ以外に真我が存在していそうな場所を思いつけないからである。その結果、真我の発見を意味する悟りを、心の奥深い層に入って行くことで果たそうとするわけだが、行き先を間違えてますって。  
悟りを追求しておられる方々に次に押さえておいていただきたいのは、真我を発見するためにはまずその前に、真我を顕在化させる(あらわにする)必要がある、ということ。そして、真我を顕在化させるための方法は心全体を脇に置くこと以外にはない、ということ。この二点である。
心全体を脇に置くことがなぜ真我を顕在化させることに繋がるのか、という話をこれからしたい。

A心全体を脇に置くと見えるもの

頭を波の上に出して海に浮かぶ氷山は、人の心の象徴として取り上げられることが多い。
人の心は顕在意識と潜在意識(ここでは深層意識も含める)から成るが、そうした場合、氷山の「頭」つまり波の上の部分になぞらえられるのは前者であり、氷山の「首から下」つまり波の下の部分になぞらえられるのは後者である。ご存知のように我々は通常、氷山の「頭」は見ることができるが「首から下」は見ることができない。我々が普段自覚することのできる顕在意識が氷山の「頭」になぞらえられ、我々が普段自覚することのできない潜在意識が氷山の「首から下」になぞらえられるのは、そのためだ。
その氷山が人の心の象徴として図に描かれる場合、「頭」は全体の一割以下、「首から下」は全体の九割以上の大きさで描かれるのが普通である。言うまでもなく、これは顕在意識と潜在意識の大きさの違いを表しているわけだが、この両者の大きさの違いはそのまま、様々な仕事における両者の能力の違いでもある。即ちどんな仕事においてであれ、大まかに言うと文科系的な仕事においてであれ、体育会的な仕事においてであれ、顕在意識よりは潜在意識の方が圧倒的に大きな能力を発揮することができる。
その具体例を挙げていったらキリがないが例えば、俗にいう火事場の馬鹿力なんてのもその出所は潜在意識だし、創作や発明などにおける使えるアイデアの出所もまた潜在意識だ。人間の能力開発に取り組んでいる人たちのほとんどが、どこまで潜在意識を顕在化できるかということに関心を寄せているのはそのためだが、顕在化した潜在意識はもはや、その人にとっての新しい顕在意識と言ってもよいだろう。
潜在意識を顕在化させて新しい顕在意識と化すためには、今の自分にとっての顕在意識を脇に置く必要がある。今の自分にとっての顕在意識を脇に置くと、それまでその下に隠れていた潜在意識が表に出てきて顕在化する。これは例えば、地面をおおっていた雪を退かすと地肌が見えるようになるのと同じである。もちろんその下には、更に深いレベルの潜在意識が隠されているのだけれども。
さて世の中には、そういった形での潜在意識の顕在化を悟りとする見方もあるようだ。悟りという言葉の意味をうんと広く取ればそれもアリかなとは思うのだが、仏教(特に禅)で言われているような悟りにそれが該当するのか否かということになると、これはもう「ノー」と申し上げるしかない。
仏教に言う悟りとは簡単に申せば真我の発見のことだが、潜在意識は本当の意味での真我ではないのだから。が、潜在意識が真我と誤認されることはある。それは真我を発見した人つまり悟った人がしばしば発する次のような言葉にも一因があるのではないだろうか。
「これ(真我)は、はじめから今ここに存在していた」
なぜなら悟りに到る前の人たちからすると、発見した後そんな風に言えそうなものときたら、潜在意識以外には無さそうに思えるはずだから。だが実際は、発見した後「これは、はじめから今ここに存在していた」と言えるものが、潜在意識の他にもあるのだ。そっちの方が本当の意味での真我なのだが、この真我はくだんの図(心の象徴として描かれた海に浮かぶ氷山の図)の中では、何によって象徴されているか、お分かりだろうか。つまりくだんの図の中で、氷山の「頭」が顕在意識の象徴で「首から下」が潜在意識の象徴なのだとしたら、真我の象徴たり得るのは何であるか、お分かりだろうか。
それについて考える際の注意事項を申し上げておくならば、図の中の氷山を包んでいる海水のことは頭から外していただきたい。そこでは海水は、実体としての何かを象徴しているのではなく、氷山の「首から下」は隠れていて見えませんよ、ということを分かりやすく表現する意味しかないのだから。
そうすると図の中で、真我の象徴たり得るのは少なくとも、氷山でもなく海水でもない何かであるというところまでは誰にでも分かりますよね。では、図から氷山と海水を取り除いたら後には何が残るでしょうか。何も残らないじゃないか、ですって……。いやいや、よく考えてみて下さい、残るものはありますよ。氷山が描かれている白い紙面が残るじゃありませんか。この白い紙面こそが実は、図の中では真我の象徴たり得ているのである。
このことからもお察しいただけるように、真我とは心が存在している場所的な存在だとも言える。
さて、心全体を脇に置くってことは象徴的には消しゴムなどを使って図上の氷山を消すことに他ならないが、そのようにすると、それまで我々の意識にのぼることのなかった白い紙面の存在が我々の意識にのぼるものだ。これは例えば映画館の中で、スクリーン上の映像が消されると、それまで我々の意識にのぼることのなかったスクリーンの存在が我々の意識にのぼるというのと同種の出来事である。また例えば黒板を使った授業を受けている時、黒板に書かれてあった文字が消されると、それまで我々の意識にのぼることのなかった黒板の存在が我々の意識にのぼることにも、それは似ている。
これらを一貫しているのは、あるモノを見えにくくしている要素が取り除かれるとそれが見えるようになる、という道理である。心全体を脇に置くと心が存在していた場所であるところの真我の存在が見えるようになる即ち顕在化する、というのもこの道理の故に他ならない。
顕在意識を脇に置くと潜在意識が顕在化することは前述の通りだが、以上のようなわけで、顕在意識と潜在意識の両方を含む心全体を脇に置くと今度は、真我が顕在化するのである。
それから、潜在意識の顕在化と真我の顕在化は、そこに到るまでの過程に似たところがあるのも手伝ってしばしば混同されるが、両者は全く別の事柄だということもお忘れなく。前者が今の自分と連続性のある変化であるのに対して、後者が今の自分とは連続性のない変化であることだけを見ても、両者の違いは歴然としている。
Bに続く
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