心を超えて


B真我を感じようとしてもならない

真我の発見を意味する悟りが起こる可能性があるのは、我々が心を脇に置いて真我を顕在化させた時だけである。発見の前に顕在化が求められるのは、何も真我に限ったことではないだろう。
心を脇に置くことが真我の顕在化に繋がる理由は前述の通りだが、見落としてならないのは、心を脇に置くことを徹底させるためには真我を感じ取ろうとしたり感じ取ったりする心の働きをも止めなければならない、という点である。
心を脇に置くってことは具体的には、そういう真我発見のために一見(シロウト眼に)役立ちそうなことまでも含めて、一切の心の働きを止めるってことに他ならないのだから。そこまでできてはじめて真に心は脇に置かれ、真我が顕在化するための条件が満たされる。
さて実は、悟り即ち真我の発見を目指しておられる方々に、心で真我を感じ取ろうとしたり感じ取ったりすることの無用さを訴えたい理由はそれの他にもう一つある。何かというと、悟りにおいて真我を発見する主体は心ではない、ということである。悟りにおいて真我を発見する主体は心ではないので仮に、心で真我を感じ取れたかに見えることがあったとしても、それは偽りの体験でしかあり得ない。心で真我を感じ取ることイコール真我を発見することではないのである。
このような意味においても、心で真我を感じ取ろうとしたり感じ取ったりすることは、悟りへの途上においては我々を後退させることの役にしか立たないと言える。

C真我の発見者は真我自身

悟り即ち真我の発見というものにおいて、最も特徴的かつ重要なことでありながら、少なくとも現在までのところ世の求道者たちにほとんど知られていないことがある。それは、悟りにおいて真我を発見する主体は真我自身である、という事実だ。悟りにおいて真我を発見する主体は私(心と同一視されている私)ではなくして、真我自身なのである。ラマナマハリシが、真我を知るということは真我として在るということだ……みたいなことをどこかで述べていたと記憶するが、つまるところの意味は私が今申し上げたことと同じかと思う。
だから、この私が真我を発見して真我の何たるかを知るに到ることが悟りではないのだ。真我を知らない私が真我を知ってる私になることが悟りではないのだ。悟りに私の出番はない。悟ったからと言って「昨日と違うのボク!」と言えないのは、そのためである。
もっと言うと、そもそも私が真我を発見したり知ったりするなんてこと自体があり得ないことなのである。私が真我を発見したり知ったりするためには、まずその前に真我と出会う必要があるが、私と真我が出会う確率はゼロなのだから。それについて説明しよう。
真我と対比される私とは心に他ならないが、前にも述べたように、その心が全面的に脇に置かれた時だけ真我は顕在化する。その消息を分かりやすく例えるならば、一つの部屋があるとして、そこから私(心である私)が出て行った時だけ私と入れ替わる形で、真我という名の客がそこに入って来るようなものだとも言える。だから、私と真我が出会う確率はゼロなのである。
このようなことを申し上げると、「私と真我が入れ替わる時、ドアのところで両者が出会う可能性があるのではないか?」てなことをおっしゃる向きがあるかも知れませんね。こういう突っ込みが入るといけないので、前述の例え話では、私が出てゆくドアと真我が入って来るドアは別のドアってことにしておきましょう。そうすれば、真我と私の間にはすれ違いざまの出会いさえも期待できない、ということまでも汲んでいただけるはずだから。
真我と私の間にはすれ違いざまの出会いさえも起こり得ないので、私が真我を発見したり知ったりできる道理はない。まして両者が繋がる道理はもっとなく、両者が一体化できる道理はもっともっとない。そういえば、どこのどなたでしたかね。私と真我が一体化することが悟りだなんてことをほざいて……いや失礼、おっしゃっておられましたのは。今出て行った奴がそいつだよっ!てか。
さて、真我が顕在化するということの意味をより具体的に理解したかったら、前述の例え話に出てきた「部屋」を自分の体に置き換えて考えてみたらよい。真我が顕在化するってことは具体的には、体に備わっている五感の主が心である私から真我に切り替わることなのだから。真我が顕在化する前は見たり聞いたりする主は心である私だが、真我が顕在化した後は見たり聞いたりする主は真我になるのだ。
厳密に申せば、真我が顕在化する前の見たり聞いたりする主である心というものは本当は心の中にしか存在してはいない。そこでは心が「見たり聞いたりしている主は自分である」と勝手に錯覚しているだけなのだから。しかし錯覚と名のつくものはほとんどの場合、解けた後はじめてその正体が明らかになるものであり、錯覚の最中にある者とっては錯覚は錯覚ではなくして現実である。私がここで敢えて、心を、真我が顕在化する前の見聞の主として扱い錯覚として退けないのは、その点を重視してのことである。
さて、その心と真我との間には出会いのチャンスがなく接点もないので、心である私の側からすると真我は赤の他人のような存在だと言える。もっと正確に申せば、赤の他人は赤の他人でも、これまで一度もお眼にかかったことがなく、これから先もお目にかかる可能性が全く無い、超の上にも超が付く赤の他人ということになる。山の向こうに住んでいる見知らぬオヤジ程度なら、いつか見かける可能性もあるだろうし人によっては、ケツの貸し借りをする仲にまで発展するかも知れないだろうけれども。
いらん話はともかく前述のように、その絶対的な赤の他人である真我が五感の主の座を心である私から奪い取るという現象が、真我の顕在化に伴って起こる。
真我の発見を意味する悟りがもたらされるのは、そんな中においてである。そこでは心は脇に置かれているので、悟り即ち真我発見の主体が心ってことはあり得ない。真我発見の主体が心ではないということになると、たとえ悟ってない人でも消去法によって、真我発見の主体は真我自身であるしかない、ということが理屈としては分かるのではないだろうか。
それにしても私ならぬ真我自身が真我を発見するというのは、例えば探偵小説の中で、探偵ならぬ犯人自身が犯人である自分をある日突然発見するというのと同じぐらい超めずらしいことだと言える。もしも私が探偵小説家で、話をそんな風に持って行くことに決めたとしたら、犯行後の犯人をある一定期間記憶喪失にするでしょうね。それぐらいしかアイデアが思い浮かばない。
真我の場合、自分で自分の存在に気づくまでは記憶喪失になっているというわけではないが(心じゃないので記憶機能自体がはなっから無い)、広い意味の「自分を見失ってる状態」にあるとは言えるだろう。
くだんの犯人の話にもう一度戻るが、くだんの犯人にとって犯人である自分を発見することはそのまま犯人である自分になることとイコールである。そこでは発見することと成ることとの間に違いはない。真我が真我自身を発見する場合にも同じことが言えるわけだが、冒頭でご紹介したラマナマハリシの言葉においても、そのことが示されている。
Dに続く
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