心を超えて


D悟りに必要なことは一つだけ(言い切っちゃうね、俺も…)

悟りが窓の外の景色だとするならば、心は窓にかかっているカーテンみたいなものだ。我々は、例えば旅先の宿などで、窓の外の景色がどうなっているかを直に知りたかったらカーテンを開けるだけでよいのと同じように、悟りの何たるかを直に知りたかったら心を脇に置くだけでよいのである。
カーテンを開ける前に、窓の外の景色がどうなっているのかをアレコレ想像することには意味が無いのと同じように、心を脇に置く前に、悟りの何たるかをアレコレ想像することには意味がない。カーテンを開けさえすれば眼に飛び込んでくるはずのものを、カーテンを開けもせず想像によって知ろうとすることに何の意味があるだろう。また、心を脇に置きさえすれば体験可能なものを、心を脇に置きもせず想像によって知ろうとすることに何の意味があるだろう。
同じことを別の例えを使って申し上げよう。架空の話だが例えばここに、山奥だか洞窟だかで、昔の人が隠しておいた歴史的な謂れ(いわれ)のある宝の箱を見つけた人が居るとしましょうか。その場合、彼にとって箱の中身を直に知るための唯一の手段は言うまでもなく、箱を開けることである。にも関わらずもし彼が箱の中身を知りたいと願いながらも、箱を開けることをせず、箱の中身を想像したり、箱の中身について記された文献に当たったとしたら、「どうにかしてるよヤッコさん!」モノであろう。それと同じように、もしあなたが悟りを体験したいのならば、悟りの何たるかを想像したり覚者の説法に当たって確かめたりする必要は一切ないのであって、ただ心を脇に置くことだけをすればよいである。
細かいことを申せば、世の中には想像する楽しみってものも無いではないから、一概に想像することが悪いとばかりは言えないだろうが少なくとも、次のようには断言できる。
「悟りの何たるかを前もって頭で把握できてなくても、心を脇に置くことをきちんとやりさえすれば、我々は悟りに到ることが可能だ」
もちろん心を脇に置くことはカーテンや箱を開けることほどには容易ではないが、というより難度の高いことではあるが、それでも従事する対象を心を脇に置く工夫一本に絞ることが、悟りという目的地への最短コースであることだけは間違いない。
一般的に見ても、即ち目的地が悟りじゃない場合でも、目的地に辿り着くためには最低限目的地への行き方だけを知っていれば足りるのであり、目的地の情報(様子)を前もって頭に入れておく必要は必ずしもないはずである。が、とりわけ目的地を悟りに限った場合には、そうしたことは不必要を通り越して害悪だとさえ言える。何故ならそうしたこと自体がそもそも、悟りに到る唯一の手段であるところの心を脇に置くことの妨げになり得るのだから。心を脇に置くってことは、頭に入っている悟りに関する情報までも脇に置くってことであるという事実を、お見落としなく。このようなわけで、行こうとしている目的地が悟りである場合には、目的地に関する情報は、「無いなら無いでも構わない」という消極的な理由によってではなく、「あったら足を引っ張られかねない」という積極的な理由によってこそ、排除されるべきなのだ。
さて以上のようなわけで、極言させていただくならば、悟りへの途上にある方々に私から申し上げるべきことがあるとしたら本当は、「悟りたかったら、ただ心を脇に置く工夫をしなさい」の一言で十分なのである。少なくとも理屈の上では、それ以上のことに触れる必要は全く無いとも言える。
だがご存知のように、当ホームページにおいて私は、それ以上のことにも触れている。触れて触れて触れまくっている。その理由を問われるならば、こうお答えしよう。「だって、そうでもしなきゃ、書くネタ無いじゃん!」いや違った、この答えはここではまずい…。話が別の方に行っちゃうから。そういう本音から来る理由とは別に、もう一つちゃんとした表向きの理由もあるのだ。取って付けたようなものじゃなくてね。
「正論だけで動いてくれるほど人は単純にできてはいない」というのが、それである。つまり、こういうことだ。前述の極言が正論なのは間違いないとしても、「何故そうなのか?」「何故それだけでよいのか?」ということを理として飲み込めるように言葉を足してやらない限り、人は中々それに従おうとはしない、ということである。頭デッカチな現代人は特にそうであろう。ヤーイ、ヤーイ、頭デッカチ!彼らに必要なのは、前出の二つの問いに対する理論的な答えである。「俺の目を見ろ、何にも聞くな」じゃダメなのだ。
というわけで当ホームページで述べられている諸々のことは大体のところ、その「何故そうなのか?」「何故それだけでよいのか?」という問いにお答えするためにあるようなものだ。たまにはその基本方針から多少逸脱したものも出てくることはあるだろうけれども、ほとんどの場合はそうなっている。
例えば、この『心を超えて』での前回までの話を思い出してみていただきたい。あれを要約したら次の二点になるだろう。
「悟り即ち真我発見の前提である真我の顕在化は、心を脇に置くことによってのみ可能である」
「顕在化した真我を発見するのは真我自身であって、心ではない」
前者からは、悟りの到来を邪魔してるのは心だけだってことが見て取れるし、後者からは、悟り即ち真我発見の段階に到ってもなお心の出番はないってことが見て取れるに違いない。そんな風に読めますよね。
従って強いて当てはめるならば、「悟るためには何故心を脇に置くべきなのか?」という問いに答えているのは前者で、「悟るためには何故、心を脇に置くだけでよいのか?」という問いに答えているのは後者ってことになるだろう。
この『心を超えて』に限らず、当ホームページで私が語っていることのほとんどは、直接的にか間接的にか前出の二つの問いのいずれかにお答えする形になっているはずだ。微視的に眺めるとそうは見えない箇所でも、巨視的に眺めてみれば、そうなっていることがお分かりいただけるに違いない。そうした方針を貫いているのは皆様に、当ホームページを、悟りへの道は心を脇に置くことが全てなんだってことを「そうか!」と納得するための材料にしていただきたいがために他ならない。さらに言えば、それ以外の材料にはしていただきたくない、とも思っている。
最も望ましいのは、「そうか!」という納得が得られたら、その納得だけを残して、それ以外のものは全部、心の外に追い出してしまわれることである。最も望ましくないのは、当ホームページを、悟りという目的地に関する情報を心に溜め込むために使われることである。それが、悟りに到る唯一の手段である心を脇に置くことの妨げになり得ることは前述の通りである。だがご存知のように、当ホームページで述べられていることの多くは、そんなことの役にも立てようと思えば立てることが可能だ。それというのも、前出の二つの問いに詳細に答えようとするとどうしても、話の内容が、悟りという目的地に関する情報を多かれ少なかれ含んだものになりやすいからである。もしそれが悪いことだと言うのならばせめて、避けては通れぬ必要悪ってことにしていただきたいものだ。
いずれにしても私が皆様にお願いしたいのは、当ホームページを、そういう必要悪の部分に引っかからず、心を脇に置くことに徹し切れる自分になるためにだけ役立てていただきたい、ということである。もちろん、あなたが本気で悟りを求めておられるのならば、という前提で申し上げるのだけれども。
Eに続く
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