新年のご挨拶と雑談


明けまして、おめでとうございます!(少し遅くなりましたが)

昨年十二月は何かと忙しくて、更新の機会がありませんでした。今やっと落ち着きを取り戻し、これを書いているところです。
更新のペースにムラがありますけど、本年もよろしくお願い申し上げます。
ご承知のように、当サイトには「悟談」と「スマッシュコラム」の二つのコーナーがありますが、昨年を振り返ってみますと、当初の予定とは裏腹に、「スマッシュコラム」の方が当サイトのメインの座を奪いつつあるみたいですね。
仕事や雑用の合間を縫い、時間とエネルギーを捻出しながら投稿文を作成していますので、短文で済ませられる「スマッシュコラム」の方に投稿が偏りがちな面があります。今後、両コーナーの主従関係がどうなるかは成り行きにまかせたいと思います。強いてこだわる必要もないことですから。が、比較的長い文章は「悟談」に、比較的短い文章は「スマッシュコラム」に、というスタンスは今後も変わらないでしょう。
翌日仕事がない時は徹夜で投稿文を作成することがありますが、そんな時あらためて思い知らされるのは、体力の衰えって奴。一度徹夜をすると若い頃の倍以上は寝ないと、体力が回復しなくなりました。中学生の頃と比較したら、倍以上どころか数倍以上でしょうか。あの頃は、定期テストの前に一夜漬けの勉強をしても、二〜三時間も寝れば、テストを受けに学校に行くだけの体力を回復できてましたもの。
余談ですが徹夜と言えば、ライオンのオスって夜間は家族を外敵から守るために寝ずの番というかパトロールをして回っているらしいのですが(昔、テレビでやってました)、あの百獣の王と称される彼らでさえも、昼間はその反動で睡魔にやられてますからね。もっとも、自分が出て行かなきゃならないほどの強敵があらわれた場合はシブシブ起きてはいるようですけども。裏を返せば、昼間のその寝だめがあるからこそ、彼らも夜は元気にパトロールして回れるのだとも言えます。彼らの人目につかない「夜のお仕事」を評価する人があまりにも少ないので、この場を借りて紹介しちゃいました。
いずれにしても、以上の話からもお分かりいただけるように、人間も含めた生き物の能力や才能っていうのは、やっぱり体力あってのものなんだなあと思います。一見したところ純粋な精神労働のように見える文章を書く作業でさえも、体が元気じゃなかったら、十分にはこなせません。まあ、当たり前と言えば当たり前の話なんですけど、十二月の忙しさの中で、特にそういうことを痛感いたしました。
ここで打ち明け話をいたしましょう。実はそういうこともあって、体を元気にするための決め技になるものとして、二週間ばかり前から模索しているのが、気(気功法でいう気)を用いた自分流の健康法なのです。
体を健康に保つために、ちょっとしたストレッチとかスワイソウと呼ばれる立ったまま手を前後に振り続ける運動などを前からチョコチョコやってはいたのですが、それだけではイマイチ不十分なものを感じていたってのも、その理由の一つにはあります。
気を用いた健康法っていうのは簡単に申せば、気を体内に取り入れて、体に溜まっているストレスを緩和したり、体をリフレッシュしたりする方法のことです。そういうのを、自分流に開発したいと思ったわけです。そういうのは専門家に教えてもらった方が早いんじゃないの、とおっしゃる向きもあるかも知れませんが、自分に一番必要なものって自分にしか分かりませんし、また自分に必要なものだけってことになると、自分で開発する方がむしろ早いと私は見ます。そのために必要な基礎知識って、本を何冊か読めば分かりますし、それに何より、アレコレ工夫して自分流のものを開発するプロセスって楽しいじゃありませんか。
私には気とかオーラなど不可視のものをアリアリと見る能力はありませんが、気を動かす原動力である想念の使い方というものに関しては、「こんな風にしたら良いんじゃないか、こんに風にやってみたい」という私なりのアイデアがありました。
アイデアの元になっているのは、体の動きと悟りの意識を融合させる方法です。昔私は、体の動きと悟りの意識を融合させる方法について研究したことがあるのですが、その時突き止めた方法を、想念の使い方に応用することを思いついたわけです。
想念とは言ってみれば、心の動きです。心の動きである想念と体の動きとは、動きという共通項を持っています。どちらも動きであるという点では変わりがありません。体の動きと悟りの意識を融合させる方法が分かれば、想念と悟りの意識を融合させる方法も分かるのは、そのためです。前者の応用形として後者がある、とも言えるでしょう。
ところで皆さん、体の動きと悟りの意識を融合させる方法ってどんなものだか、お分かりになりますか。あ、いや、こういうことについて一度も考えたことのない方に前述のような質問をするのは、適切ではありませんね。
その方法がどんなものであるかということに関しては、色々な角度から説明することができます。いつか機会があればキッチリ説明したいと思いますが、ここでは「方法を通さずに、体を動かすことだ」とだけ申し上げておきましょう。ここに言う方法とは、心的な意味での方法のことです。もっと簡単に申せば、心の状態をこんな風に保とうとか、こんな風に持って行こうとか、かく有らしめよう、といった方向づけのことです。
こういう心的な意味での方法って一般的に言って、自覚的に外さない限り、自然に外れるってことはないものなんですよ。何をするにつけても、意識できていると否とに関わらず、誰でもそれを持っているものですから。もちろんそれぞれの間には、洗練されているものと洗練されてないものの違い、あるいは精妙なものと粗大なものの違いってのはありますけども。
洗練されているものであれ洗練されていないものであれ、精妙なものであれ粗大なものであれ、明確なものであれボンヤリしたものであれ、方法と名のつくものは全て外してしまって、言い換えると如何なる方法も通さずに体を動かすこと、実はこれこそが、体の動きと悟りの意識を融合させる方法なのです。方法無き方法とでも言うべきでしょうか。
このようなことを申し上げると、ほとんどの方は禅問答みたいな訳の分からなさを感じられることと思います。が、長い間この問題に取り組んでこられて、答えを見いだせずに煮詰まっておられた方は、何かピンと来るものがあったかも知れません。
「方法を通さずに体を動かす」というのは「方法を使う前に体を動かす」あるいは「方法が介在するより先に体を動かす」といった言い方にも置き換えることができます。そんな風にするとどうなるかと申しますと、体の動きと時間的にも空間的にもピタリと一つになることができます。あるいはどの時点においても、動きに成りきった状態になることができます。体の動きと悟りの意識が融合した状態とは具体的にはそういう状態を指すのです。動きに成りきれたからといって、それが一体なんの役に立つのじゃ!てな突っ込みを入れられたら返答に困るんですけども。でもそれって、巷でよく言われている「今に生きる」を真の意味で体現した状態でもあるのですよ。今に生きてる状態って、その時々の行為に成りきってる状態でもありますから。
いずれにしても、この方法無き方法とも言うべきやり方を想念の使い方に応用するとしたら当然「方法を通さずに想念する(想念を働かせる)」という形になりますね。それをやると、もうお分かりでしょうが、想念あるいは心に成りきった状態になることができます。方法を通さずに体を動かすと、体の動きに成りきった状態になれるのと同じように。そう言えば、昔読んだ本の中に、「忍術のギリギリのコツは心に成り切ることだ」みたいなことが書かれてあったのを思い出しました。想念の魔術とか想念術といった言葉もあるように、心の働きである想念には超常的なパワーがあることはよく知られていますが、それを最大限に引き出すコツは心に成り切ることだ、という風にも受け取れる言葉ですね。
どちらにせよ、前述のような想念の使い方をすれば気を効果的に動かせるはずだ、というのは私の個人的な推測に過ぎません。当たっているかも知れませんし、当たってないかも知れません。でも私にはそういう風に推測されましたので、前述のような想念の使い方でもって気を体の中に取り入れ、体をリフレッシュする試みをしてみたという次第です。
やり方の詳細はここでは述べませんが、その結果どうなったかと申しますと、まず最初に挙げたいのは、やりはじめてしばらくすると体の中に溜まっている潜在的な疲れがドッと表に出てきたことです。毎回そうなりました。体の疲れは抜ける前に表にドッと出てくるものだという定説がありますが、この定説に照らす限りでは、それは私のやり方が功を奏している証拠ってことになりますね。いや、定説を持ち出すまでもなく、疲れが表に出た後は実際に体の調子が上がりましたので、それだけでも、自分のやり方は少なくとも間違ってはいなかったと分かりました。
その疲れの表面化ということについて申し添えておきますと、最初の頃はそれが気持ち悪くて直ぐにバタンキューと横になるほどでしたが、回を重ねるごとに、その度合いが薄らいでいっているのを感じます。疲れが表面化した後、体調が上がるというパターンに変わりはないのですけれども。それから、キッチリそれをやると、食事の量が少なくて済むみたいです。
というわけで少なくとも今のところ、私が開発した「気の健康法」は大いに効を奏していると言えます。これを携えて今年は調子よく行けたらな、と思います。
それにしても皆さん、悟りの意識と心の動き(働き)である想念を融合させるって話、珍しく感じられたのではないでしょうか。私がいつも申し上げているように、悟りの意識そのものは心を脇に置いた時にしか顕在化しないのですけれども、そのことと悟りの意識と想念を融合させ得るってこととは矛盾しないものなんですよ。悟りの意識と融合した体の動きがあり得るように、悟りの意識と融合した心の動きもあり得るわけです。(続く)
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