柳は緑、花は紅

B主客合一について更に考える

これまで見ることにまつわる話ばかりしてきたので、今度は聞くことに関する話もしておこう。
想いを介在させないという条件を満たしておれば、見ることと同じく、聞くこともまた悟りの契機になり得るのである。
悟りの別名とも言うべき、主客一体の境地とは何も見るものと見られるものが一つになった状態のことのみを指しているわけではない。聞くものと聞かれるものが一体となった状態もまた、その中に含まれている。見るを聞くに置き換えても同じなのだ。
ついでだが、そういう意味でなら、匂いを嗅ぐことだって悟りの契機になり得る。実際、珍しいケースだが、桃の花の匂いを嗅いで悟ったなんて人も昔はいたらしい。
要するに、視覚であれ、聴覚であれ、嗅覚味覚触覚であれ、意識を喚起させるものは何でも悟りの契機になり得るということである。が、今は聴覚即ち音を聞くことにからめて話を続けよう。
さて音の中でも、車のパンクする音ほど人に不意打ちを食らわせるものはあるまい。誰でも一度や二度は車のパンク音を耳にされたことがおありであろう。ない方は、それに類する体験、例えば思いがけずガラスとか皿とかが割れる音を聞いたことなどを思いだし、類推していただきたい。
その時の、一瞬の空白状態を覚えておられるだろうか。
車がパンクした時のあの何ていうのかな、コケコッコーじゃなくて……、そうパーンという音もまた、ほんの一瞬だが人の想いを断ち切らずにはおかない。もしもその音を聞いて、想いが中断しない者がいたとしたら、そいつはきっと心臓に毛がはえてて、定期的にそってもらってるんじゃないかな。「だんな様、このごろオケケが薄くなりましたけどお体の方は大丈夫ですか?」てなことを言われてたりしてな。
それはともかく、車のパンク音などを聞いて想念が全面停止した時というものは、あなたは自覚しておられなかったかも知れないが実は、主客合一した悟りの状態になっておられたはずなのだ。即ち、その時のあなたの意識はパーンという音と渾然一体(婚前一体って書いちゃいそう)となっていたに違いない。向こうで鳴る音を、距離を置いたこちらで聞いたのではなく、あなた自信がパーンと鳴ったかのようであったに違いない。
先に、見る意識が対象と一体化する話をしたが、それと全く同じことが聞く意識において起こったわけである。
これらの体験から、悟りの何たるかを説明する時に使われる主客合一という言葉の意味、あるいはニュアンスを汲み取っていただきたいものである。そして、主客合一の状態になるためには、単に想念が停止しているだけではなく、眠ったり眠ったようになってないこと即ち、意識が喚起された状態にあることも必要なんだってことを銘記しておいてください。
ところで、この主客合一ということに関してだが、誤解を防ぐためにも触れておかねばならないことがある。
何かというと、主客合一という言葉から多くの人が受けるであろう印象とは裏腹に、そこには対象との一体感があるわけではないということだ。
厳密に申せば、、一体感があるうちはまだ、対象と完全に一体化してない証拠なのである。意外に想われる向きもあるだろうが、そのことを手っ取り早く理解していただくために、ここで一つの質問をさせていただこう。
あなたは今、自分の体との一体感を感じておられるだろうか?
いかがであろう。そんなものは感じておられないはずである。あなたと体は別のものではないのだから。一体感の入り込む余地もないまでに、あなたと体は一つなのだから。
この事実から、一体感を感じるためには、対象との間にいくばくかの距離が必要なのだということが、ご理解いただけるのでは。
もちろん、対象との間に距離があり過ぎたら一体感は得られないが、丸っきり距離がなくてもまた一体感は得られないものなのである。一体感が生じるのは、私と対象との間に微妙な分離がある時、言い換えると、私と対象が完璧にではなく、おおむね一体化した時だということである。
だが悟りに於いては、一体感が入り込む余地も無いまでに、主体と客体が時間的にも空間的にも一致しきっているのだ。
一体感というものもまた想念の一種であることを考えれば、より分かりやすくなるかも知れない。一体感というものもまた、微かなレベルのものではあるけれど、主客合一の状態に水をさす想念の一種に他ならないのだ。悪いやっちゃなあ。
従って、もしもあなたが悟りを求めておられるのであれば、対象との間に一体感を得よう得ようとなさってはならない。悟りの別名である主客合一とは、私と対象との間に一体感が発生する直前の状態のことだ。
(Cに続く)
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