雑談の続き(動中の工夫について更に考える)


その一

前回の雑談でああいう話が出ちまいましたので、ついでにああいう話をもっと続けてみたくなりました。本当は、そんなつもりで始めた話ではなかったんですけども。
前回私は、方法(心的な意味での方法、心法と呼ばれることもある)を通さずに体や心を動かすことが悟りの意識と動きを融合させる方法だと申し上げました。そしてそれに対して「方法無き方法」という逆説的な含みのある呼び名を与えました。が、見方によってはそれは、「唐突法」と呼んでもいいような側面も持っています。言ってみればそれは、方法という動きに先立つものを一切排除して、いきなり動きを開始するいうスタイルでもあるわけですから。あるいはそれは、方法を先に立ててそれに従って動くってんじゃなくて、いきなり動きそれ自体を前面に出すというスタイルでもあるわけですから。
ちなみにもしも私が、その動きの有り様を視覚的なイメージで表現するとしたら、ちょっとグロテスクになっちゃいますけど「頭部の無い胴体だけのヘビ」って感じでしょうか。少し解説しておきます。
クネクネと動くヘビの胴体は、私たちの体や心の動きの象徴です。そしてヘビの頭部は、その動きを先導する方法の象徴です。これだけ申し上げれば、前述のような動きの有り様を「頭部の無い胴体だけのヘビ」になぞらえた理由がお分かりいただけるかと思います。
方法という名の先導者を持たない私たちの体や心の動きは正に、胴体だけでクネクネと動くヘビみたいなところがあります。
さて有りがたいことに、この「方法無き方法」とも「唐突法」とも言うべき動きのスタイルはモノにするのに時間がかかりません。そこで求められるのは、方法と名のつくものを十把ひとからげに(無選択に)取り外すだけのことなのですから。
良くできたものだろうと出来の悪いものだろうと、洗練されたものだろうと粗雑なものだろうと、潜在意識レベルのものだろうと顕在意識レベルのものだろうと、深かろうと浅かろうと、そんなことは一切関係ありません。そういうことは度外視して、方法と名のつくものを全部無差別に情け容赦なく取り外してしまうってのが、ここに言う「方法無き方法」あるいは「唐突法」であります。
よく言われる言葉に「ものを作り上げるのには時間がかかるが、ものを壊すのには時間はかからない」というのがあります。これをもじって言わせていただくならば、「方法を練り上げるのには時間がかかるが、方法を取り外すのには時間がかからない」。
念のために一つだけ申し添えておきたい。
「今ここにある動きを感じる」とか「今を感じながら動く」とか「今ここに心を向けながら動く」といったような、一見したところ悟りの意識と動きを融合させることに効果がありそうな方法(本当は全然効果がないのですが)でさえも、前述のような理由により、ここでは排除の対象となります。少なくとも、私の言う「方法無き方法」もしくは「唐突法」をどんなものだか試してみようという気のある方は、一時的にでもその規則に従っていただきますように。
さてそれではここで、その「方法無き方法」あるいは「唐突法」と称されるものが何故、悟りの意識と動きの融合を可能にするのかを考えてみましょう。考える上で、まず押さえておくべきは次の点です。
動きの最中において我々がその方法を実践すると、すなわち動きに先立つ方法を全部取り外してしまうと、結果的に我々の心は脇に置かれた形になる。そうなるのは、動きの最中にある時の我々にとって、動きに先立つ方法を全部取り外すことは取りも直さず、心を脇に置くことに他ならないからです。両者がイコールになる理由については、取り合えず横に置いておきましょう。今は、そういうものなんだってことだけ、頭に入れておいてください。
で、心が脇に置かれると自動的に顕在化するものがあります。当サイトの読者ならもうお分かりですよね。言うまでもなくそれは悟りの意識(真我)です。当サイトの中で私は常々、心を脇に置くことは悟りの意識を顕在化させることに直結していると申し上げてまいりましたが、当然ながらそのことは、我々が動いている時であろうと動いてない時であろうと変わりがありません。ただし心を脇に置くための方法そのものには色々な種類があって、その中には今取り上げている「方法を通さずに動く」というような、動いている時にしか使えない特殊なものも含まれている、という次第。いずれにしてもここまでの話を踏まえると、次のような三段論法が成り立ちます。
A・「方法を通さずに(方法を取り外して)動くこと」と「心を脇に置いて動くこと」とはイコールである。
B・そして「心を脇に置いて動くこと」と「悟りの意識の中で動くこと」とはイコールである。
C・故に、「方法を通さずに(方法を取り外して)動くこと」と「悟りの意識の中で動くこと」とはイコールである。
ちなみに、悟りの意識の中で動くこと、言い換えるならば悟りの意識と動きの融合を可能にする直接的な方法というものは存在しません。すなわち、悟りの意識そのものに直接タッチして、動きと融合する形に持ってゆくという方法を我々は取ることができません。我々にとってはタッチどころか、見ることさえもできないのが悟りの意識というものですから。
従って悟りの意識の中で動くこと、もしくは悟りの意識と動きを融合させることのために我々が取り得るのは、前述のような間接的な方法だけなのです。前述のような方法すなわち「方法を通さずに動くという方法」を間接的な方法と申し上げる理由はお分かりですよね。でも、おさらいの意味も込めて解説しておきましょう。
それが間接的な方法だと言えるのは、それが直接的に狙っているのはあくまでも動きの中で心が脇に置かれた状態を作り出すことであって、悟りの意識と動きを融合させることそれ自体ではないからです。前者には後者が必ず付いてくるという法則があるからこそ、こういう間接的な方法が成り立つのは言うまでもありません。
話は変わりますが、前述のような間接的な方法を実践することによって、動きの中に現れる悟りの意識(真我)には、これまで折に触れて述べてきましたように様々な側面があります。例えばそれには、モノを有るがままに見ているという側面もあれば、モノと一体化しているという側面もあれば、モノから離れているという側面もあります。しかもそれら全てがバラバラにではなく、渾然一体のものとしてあるというところがミソなのです。悟りの意識という一つのものの中に、今ピックアップした三つの側面も渾然一体となって同時に存在しているわけです。仮にその三つの側面をA及びB及びCだとするならば、Aの中にBとCが同時にあり、Bの中にAとCが同時にあり、Cの中にAとBが同時にある、という形になっています。
常識ではとても考えられないような状態ですよね。しかもそれは、想像しようったって想像しようのない状態でもあります。このことだけでも、悟りの意識は体はもとより心でも知り得ないものだということが、お分かりいただけると思います。それを体感するとか感得するなんてことは、有り得ない話です。
とはいえ、そういう途方もないところのある悟りの意識を我々は、「方法を通さずに動く」という極めてシンプルな方法によって動きの中に現すことができるのです。そのギャップが、おもしろいと言えばおもしろい。そして前述のような理由により、動きの中に現れている時の悟りの意識がどんなものだか描写するとすれば、見る角度によって、動きを有りのままに見ている意識だとも言えますし、動きと一体化している意識だとも言えますし、また動きの外に出ている意識だとも言えるわけです。
次回は、「方法を通さずに動く」という方法がイマイチよく分からないという方のために、それと同じ効果のあるもう一つ別の方法をご紹介したいと思います。(続く)
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