雑談の続き(動中の工夫について更に考える


その二

前回お約束した「もう一つの別の方法」をご紹介する前に、前回までの話を補足しておきましょう。
悟りの意識(真我もしくは真我という意識、第四の意識とも呼ばれる)は体も心も超えたものであり、体なり心なりで「これだ!」とばかりに把握できるようなものではありません。また体と心から成る個体としての私が体感したり、実感したり、感得できるようなものでもありません。と申しますのも、悟りの意識を知り得るのは唯一悟りの意識それ自身と昔から相場は決まっているからです。個体としての私の側からはどうあがいたって、悟りの意識は知りようがないわけです。これは、真剣に悟りを求めておられる方にとっては是非とも踏まえておくべき事柄だと言えます。それから、もう手遅れかも知れませんけど、覚者をきどって人様に悟りの何たるかを説いておられる方にとっても。いらんことを言ってしまいました。
それはよいとして、以上の事実にも関わらず、悟りの意識と体の動きや心の動き(想念とかイメージ)とを融合させることは可能なのです。すなわち心と体から成る個体としての私にとって、悟りの意識そのものを見ることは叶わぬものの、体や心の動きと悟りの意識を融合させること、言い換えるならば体や心を動かす主の座に悟りの意識に就いてもらうことは、工夫次第では可能なのです。その体や心の動きと悟りの意識を融合させる工夫のことを私は個人的に「動中の工夫」と勝手に呼ばせていただいております。ひょっとしたら、多くの人がその言葉に込めている意味合いとはニュアンスが違うのかも知れませんけれども。
さて、悟りの意識と(体や心の)動きを融合させるための方法の一つとして「方法を通さずに動く」という方法があることを、前回皆さんに紹介させていただきましたが、皆さんの中で、それを試してみた方はおられるでしょうか。
それに関して一つ申し忘れておりましたが、初心者の場合、前述の方法を試すとしたら最初は、体の動きの中で試す方がよいと思います。一般的に見て、いきなり心の動き(想念とかイメージ)の中でそれを試すのは、初心者には無理があるからです。初心者の場合は普通、「悟りの意識と体の動きを融合させる」ってことの意味が飲み込めてはじめて、「悟りの意識と心の動きを融合させる」ってことの意味もまた飲み込めるようになるものです。
なので、前述の方法を体の動きの中で試すことに慣れた後でなら、心の動きの中で同じことを試してみるのも悪くはないでしょう。前述の方法はあくまでも、体の動きの中で試すのが基本であり、心の動きの中で試すのはその応用形(それも特殊な応用形)とお考えください。後でご紹介する「もう一つの別の方法」においても、同様のことが当てはまるのは言うまでもありません。
初心者の皆さんのために、さらに申し添えておきましょう。体の動きと一口に言ってもご承知のように色々な種類があるわけですが、最初のうちはその中でも例えば、歩行のようなシンプルで日常的なものを使って前述の方法を試してみられたらよいと思います。
あるいは、立ったまま両手をひたすら前後に振り続ける中国式の体操(スワイソウと呼ばれてるやつ)がありますが、ああいう取っ付きやすいのもお勧めです。それから、手作業とか体を動かして何かをする仕事に従事しておられる方の場合は、それに慣れておられるでしょうから、それを使って前述の方法すなわち「方法を通さずに動く」という方法を試してみられるのも良いんじゃないでしょうか。
話は変わりますがここで、「方法を通さずに動く」と私が申し上げる時の「方法」の意味するものを、もう少し押さえておきましょう。ここに言う「方法」なるものが「こんな風にしよう、あんな風にしよう」といった、我々の心の中にある動きに対する方向づけを意味していることは既に述べた通りですが、いまいちピンと来てない方のために、我々が体を動かしている場合に当てはめて、その内容をもっと具体的に挙げておきます。その内容は例えば、次のようなものです。
「一生懸命にやろう」「ひたむきにやろう」「成り行きに身をまかせながらやろう」「スムースにやろう」「自分を捨ててやろう」「動きを感じながらやろう」「コツコツやろう」「仕事を飲んでかかってやろう」……
ちなみに我々が体を動かしている時、以上のような動きに対する方向づけ、すなわちここに言う方法なるものを、我々の心から取り外してしまったら、どのような変化が我々にもたらされると思われますか。一言で申せば、心はその時点から体の動きに関与できなくなります。ということは例えばそれが散歩中のことだったとしますと、その時点から心は手の振りや足の運びを左右(コントロール)できなくなるわけです。では、どうしてそうなるのでしょうか。それは、心ってものは常に、方法(ここに言う方法)を通してでなければ体の動きを左右できない、もしくは手足を動かせないようにできているからです。
心は方法を通してでなければ、言い換えると「あんな風に」とか「こんな具合に」とか何らかの方向づけを伴ってでなければ、体を動かせないものなのですよ。その証拠に「どんな風にでもなく体を動かしてごらん」てなことを言われた日には、心は途方にくれるじゃありませんか。違いますかね。皆さん、ひとつ実験してみてください。心を使って、どんな風にでもなく体を動かすなんて芸当が果たしてできるものかどうかを。
どうです、できないでしょう。ザマーミロ。心はどんな風にかなら体を動かすことができます。しかし、どんな風にでもなく体を動かすなんて芸当はできません。これが「心は方法を通してでなければ体を動かせない」の意味です。この消息を、どんな例え話で表現したらよいものでしょうか。例え話としては出来がよくないかも知れませんが、あるいは変かも知れませんが、しゃべる時必ず首を振るクセのある人を思い浮かべてみてください。首を振らないとどうしてもセリフが口から出てこない人と言い換えてもいいですね。これを仮にAさんとしておきましょう。余談ですが私の田舎に、それを上回る人すなわち起きてる間は常に首を振り続けている婆さんが昔おりまして、皆に「首振り婆さん」と呼ばれておりました。しゃべる時必ず首を振るクセのあるAさんと、体を動かす時必ず方法を伴おうとする心とは、似たところがあります。一つのおこないに、別の余計なものをくっつけないではいられない、という一点において。方法という余計なものを伴わずに純粋に体を動かすことだけができない心と、首振りという余計なものを伴わずに純粋にしゃべることだけができないAさんとは、どこか似ています。
もしもAさんみたいに、しゃべることと首を振ることとがセットになってる人が居たとしたら(本当にいらしたら怒られるかも知れませんが)、彼のおしゃべりを止めさせるのは簡単です。頭を押さえて首を振れないようにしてやればよいのですから。そういう風にされたら彼はきっと、口をパクパクはさせるでしょうけれども抗議の一言さえも吐き出せないはずです。何の話をしているのか分からなくなってきましたが、ちょうどそれと同じように、我々が体を動かしている時、心の中から「方法」を全部取り外してしまうと、心は体を動かすスベを失ってしまいます。そんな中で心は、体の動きに関与することができません、あるいは体の動きを企てることができません。
仮に今申し上げた理屈がまだ飲み込めないという方でも、動きの最中にある時「方法」を通さずに動くことを試みてみれば、その時点から体の動きに心が関与しなくなるってことが少なくとも、体験としてはお分かりになるはずです。「方法」を通さずに動くことは心を脇に置いて動くことに等しい、と前に申し上げましたが、その理由は以上のようなものでもあるわけです。別の説明の仕方もありますけれども。

その三

悟りの意識と体や心の動きを融合させるための一方法として、「方法を通さずに動く」という方法があることを、既に皆さんに紹介させてさせていただいておりますが、ご記憶のようにそれに対して私は、「方法無き方法」(もしくは「唐突法」)という呼び名を与えました。今回ご紹介する、それとは別のもう一つの方法に呼び名を与えるとしたらさしずめ、「過去断ちの法」といったところでしょうか。
この「過去断ちの法」ってのは、ご紹介済みの「方法無き方法」と最終的な効果は全く同じなのですが、呼び名からもお察しいただけるように、実践上それとは大きな違いがあります。両者は同一のゴールに辿り着くための二つの異なる道のようなものだも言えるでしょう。といっても当然ながら、どちらも体や心の動きの中で実践するようになっているという点は共通しておりますけれども。
「過去断ちの法」の具体的な中身を一言で申しますと、「過去の動きを振り返らずに動く」というものです。ここに言う「過去の動き」とは終了済みの動きに他なりませんが、それを例えば我々が歩いている場合に当てはめて申しますと、「既に終了してしまった、手の振り足の運びを含む歩きの動作」ってことになります。
従ってもしもあなたが、「過去断ちの法」を歩きの中で実践なさりたい場合は、それを振り返らずに(もちろん心で)歩くことをなさればよいわけです。すなわち「過去断ちの法」を歩きに適用すると、終了済みの歩きの動作を振り返らずに歩く、という形になります。
やることはたったそれだけか? ですって……。そう、たったそれだけなんですけど、何か? 眠っててもできそうだな、ですって。そこまでおっしゃいますかアナタ。では、言わせていたたせきますけど、ところがギッチョンそうでもないんだなコレが。むしろ、その逆。つまりコレって、ちょっとでもボンヤリしてたら出来ないことなのですよ。眠ってても…、なんてとんでもない。
何故ならここに言う「過去の動き」の過去とは、絶対の今から見た厳密な意味での過去を指しているのですから。分かりやすく申せば、例えばの話、十分の一秒前、百分の一秒前、千分の一秒前、もひとつオマケに万分の一秒前でさえも、ここでは過去として扱うってことなのですから。
過去という言葉は通常そこまで厳密な意味において使われることは稀ですが、そこまで厳密に過去という言葉の意味を考えると、「過去の動きを振り返らずに動く」という試みが、如何に油断のならないものかってことに思い至るでしょう。一瞬前の動きでさえも「過去の動き」と見なし、それを振り返らずに動き続けることは確かに油断のならないものです。その中で唯一例外的に振り返ることを許されているのはゼロ秒前だけです。こういう捻った物言いを私がするのは、ここに言う「過去の動きを振り返らない」という言葉の持つ重みと厳しさに思いを馳せていただきたいがために他なりません。
とはいえその一方、別の角度からそれを眺めてみると、油断さえしなければそんなに難しいことではない、とも言えます。あるいは、油断が許されないという一点を除けば、難しい要素を探すことの方が難しいとこそ言うべきでしょうか。何故ならそこで我々に求められるのは、「これをする」式の積極的な行為ではなくして、「これをしない」式の消極的な行為なのですから。もし仮に、そこで我々に求められるのが例えば「一瞬前の動きを振り返る」といった積極的な行為であったとしたら、そこには何らかの難しさがあります。それに対して「一瞬前の動きも振り返らない」といった消極的な行為の場合は、油断のなさこそ要求されるものの難しい要素は見当たりません。
「過去断ちの法」を歩きの中で実践するとしたら前述のように、一瞬前の歩きの動作も振り返ることが許されないわけですが、そんな中では我々は、終了済みの歩きの動作について思考することはもちろん、それを心で感じることさえもできなくなります。
大まかに見て、思考が心の浅い層(顕在意識)の働きなら、感じることは心の深い層(潜在意識)の働きだと言えますが、一瞬前の歩きの動作も振り返れないという制約のもとでは、前者はもとより後者でさえも封じられてしまいます。そうならざるを得ないのは、ある物事を感じるためには一瞬前のソレ(一瞬前に存在していたソレ)を振り返る必要があるからに他なりません。一瞬前に存在していたソレを(心で)振り返ることなくしてどうして我々は、それに対して何かを感じることができるものでしょうか。できっこありませんね。よって、ある物事に対して何かを感じることは、一瞬という微かな過去を振り返ることとイコールなのです。感じるという行為を顕微鏡を覗くみたいに細かく調べてみると、極めて微かなレベルにおいてではありますが、過去を振り返る行為に分類されることが分かります。
ついでながら、悟りが絶対の今に存在しているという事実は悟りに関心のある人たちの間ではよく知られていますが、その絶対の今に存在している悟りは、思考はもとより感じることによってさえも接触不可能なものであるというところまでご存知の方は、稀なようです。
名指しはいたしませんが、そういうことが可能であるかのように言いふらす御仁が居るのは困ったものだと思います。
絶対の今に存在している悟りは感じることさえもできないと申し上げる根拠を問われるならば、前述のように、感じるという行為は過去に存在したものを捉える行為であって、絶対の今に存在しているものを捉える行為ではないからだとお答えしましょう。この辺りの消息については、スマッシュコラムの「心と真我」の中で『絶対の今は感覚よりも速い』と題して既に詳述いたしました。
さてこのようなわけで、「過去断ちの法」には直接的には、動きの中で心が過去を向くことを止める効果があるのですが、そういう効果のある方法に対して「過去断ちの法」なんていう思い切った呼び名をつけたのは実は、過去は我々の心の中にしか存在しない、という洞察を踏まえてのことであります。深いでしょ。が、それは横に置いといてここからは、心は過去を向くことを止められると結果的に、未来を向くことをも止められてしまう、という話をいたしましょう。
心はその性質上、過去を向くことを止められると結果的に、未来を向くことをも止められてしまうものなのです。我々が動いている時のことを例に出しながら、その理由を考えてみましょう。
我々が動きの中にある時、心にとって過去を向くということは、現時点までの動きの経緯を振り返ることに他ならずまた、未来を向くということは、現時点以降の動きを企てることに他なりません。仮に、前者を「動きの振り返り」と呼び、後者を「動きの企て」と呼ぶとすると、心にとって「動きの振り返り」をすることなしには「動きの企て」をすることは不可能だと言えます。つまり心というものは、「ここまで体がどう動いてきたか」を振り返ることなしに「ここから先、動きをどう持って行くか」は決められない、ということ。
ひとつ心の側から考えてみてください。現時点までの体の動きを振り返ることなくしてどうして、現時点以降の体の動きを「あんな形に持ってゆこう、こんな形に持ってゆこう」といった具合に企てられるものでしょうか。企てられませんよね。「ここから先」の体の動きを企てるためには、「ここまで」の体の動きを踏まえる必要がありますから。この話は、我々の人生において、今後の身の振り方を考えるためには今までの自分の足跡を踏まえる必要がある、という話と規模は違うながらもどこか共通するものがあります。
前にも同じようなことを申し上げましたが、仮にこういう理屈がイマイチ飲み込めないという向きがあったとしても、例えば歩いている時など、心による「動きの振り返り」を止めると結果的に、心による「動きの企て」も止んでしまうってことが、少なくとも体験としてはお分かりになるはずです。
さて「その二」で私は、「方法」を取り外してしまうと心は体の動きを企てられなくなる、という話をいたしましたが、以上のような理由により、「動きの振り返り」を止めた場合もやはり同じように、心は体の動きを企てられなくなるものなのです。その意味においても、「方法を通さずに動く」という方法すなわち「方法無き方法」と、「過去の動きを振り返らずに動く」という方法すなわち「過去断ちの法」とは最終的な効果は全く同じであると言えます。この二法の共通の効果は抽象的に申せば、心が脇に置かれる、というものですが、より具体的に申せば、心が動きを企てられなくなる、というものなのです。動いている時の我々にとって、心が脇に置かれるってことと、心が動きを企てられなくなるってこととは、つまるところの意味は同じと言えます。
このようなわけで我々は、動いている時、「方法無き方法」を用いることによっても「過去断ちの法」を用いることによっても、動きを企てる心の働きを止めることができるわけです。そして、悟りの意識と体の動きを融合させるために、もしくは体を動かす主の座に悟りの意識を就かせるために、我々にできることはそれだけです。というか、それ以上のことをする必要はないのです。
前出の二法のどちらかを用いて動きを企てる心の働きを止めながら、何も考えずに動いてみてください。ごく自然に、頼んでもいないのに、心を超えた悟りの意識が体を動かす主の座に就いているものです。その時あなたは理解されるのではないでしょうか。体を動かす主の座に悟りの意識を就かせるためには、ただ単に心をその座から退かせるだけでよかったのだと。
(続く)
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