雑談の続き(動中の工夫について更に考える)

※緊急の用事ができて、予告日より一日遅れの更新となりました。


その四

私の言う「動中の工夫」とは基本的に、体の動きの中で(体の動きを通して)真我を体現することに他なりませんが、その真我には様々な側面があります。その主要なもののいくつかを以前『真我における不可分の関係』の中でご紹介しましたが、ここであらためて、その時とは少し違う言い回しも混ぜながら、真我に備わる主要な側面のいくつかを挙げておきましょう。
@我々が認識しているモノ(例えば肉眼に映る色や形とか、心の思いとか……、もちろん体の動きも)を有りのままに見ているという側面。
A我々が認識しているモノと一体化しているという側面。もしくは我々が認識しているモノに釘付けになっている(成り切っている)という側面。
B(Aと矛盾するようだが)我々が認識しているモノや世界から離れているという側面。より正確には、それらに対して「垂直方向」に離れているという側面。
C不動の(動かない)存在という側面。
D絶対の今に在るという側面。
ざっとこんなところでしょうか。当サイトでこれまで私が述べてきたことになじんでおられる方ならば少なくとも、これらの中に意味の分からないものは含まれていないはずです。
『真我における不可分の関係』の中でも申し上げたことですが、ある意味便利なことに、例えば前述のような真我に備わる様々な側面の内どれか一つを体現することができれば我々は結果的に、真我に備わる他の側面も全部体現できるようになっております。すなわち我々にとって、真我に備わる様々な側面の中のどれか一つを体現することはそのまま、真我に備わる全側面とどのつまりは真我そのものを体現することとイコールなのです。それというのも、真我に備わる側面のどの一つを取っても他の全ての側面と不可分の関係にあるからです。これについての詳しいことは『真我における不可分の関係』の中で述べました。そしてこれもその中で述べたことの繰り返しになりますが、真我に備わる様々な側面の内どれか一つを体現することは、心を脇に置くことともまたイコールになっております。従って最終的には次のような図式が成り立つことになります。
「真我に備わる様々な側面の内どれか一つを体現すること」イコール「真我(の全側面)を体現すること」イコール「心を脇に置くこと」。
ということで我々にとって、「真我に備わる様々な側面の内どれか一つを体現すること」は表から眺めると真我を体現するための方法だと言えますが、裏から眺めると心を脇に置くための方法だとも言えます。
さてここに言う「動中の工夫」とは冒頭で述べましたように基本的に、体の動きの中で真我を体現することですが、これまでの話を踏まえて次のように結論づけることができます。
真我を体の動きの中で体現するためには、真我に備わる全ての側面ではなく、その中のどれか一つを(選んで)体の動きの中で体現すればよい。言い換えるならば、ここに言う「動中の工夫」なるものは結局のところ、真我に備わる様々な側面の内どれか一つを体の動きの中で体現することで成し得るということです。
真我に備わる様々な側面とは例えば先ほど羅列した五つのようなもののことを言いますが、それらの中のどれか一つを体の動きの中で体現することによって我々は、ここに言う「動中の工夫」を成し得るわけです。すなわち体の動きの中で、先ほど羅列したものの中の@を体現することによっても、Aを体現することによっても、Bを体現することによっても、Cを体現することによっても、Dを体現することによっても、ここに言う「動中の工夫」を成すことは可能なわけです。
が、これらの中でも特に、私が個人的に皆さんにお薦めしたいのは、一番最後のDを体の動きの中で体現するという方法すなわち、真我に備わる「絶対の今に在るという側面」を体の動きの中で体現するという方法です。分かりやすく単純化して申し上げると、「絶対の今に在りながら体を動かすという方法」ってことになります。この方法を私が特に皆さんにお薦めする理由は、私の見た限りでは他の四つの方法に比べて取り組みやすいという点にあります。といっても、「あるアレンジを加えれば」という但し書きがそこに付くのですけれども。最後までお読みになれば、その意味はお分かりになるはずです。
さてそれではここで、私のお薦めの「絶対の今に在りながら体を動かすという方法」について少し詳しく述べることにいたします。
この方法を正しく実践するには当然ながら、「絶対の今に在ること」の意味を正しく理解しておく必要がありますが、そのための手がかりにしていただくべくここで申し上げておきたいのは、「絶対の今に在ること」は次の二つの側面から成り立っているということです。
「未来を見ない」という側面、および「過去を見ない」という側面。ここに言う未来とか過去は絶対の今から見た厳密な意味での未来とか過去のことです。
「絶対の今に在ること」が真我に備わる側面の一つであることは既述の通りですが、この「絶対の今に在ること」は前出の二つの側面にさらに細分化することもできるというわけです。「絶対の今に在ること」は「未来を見ない」という側面と「過去を見ない」という側面の二つから成り立っているとも言えます。
そして『真我における不可分の関係』の中でも述べたことですが、これら二つの側面もまた不可分の関係にあります。不可分の関係にあるということは申すまでもなく、どちらか一方があるところにはもう一方も必ずあるという意味なのですけれども。従って次のように言うこともできます。
我々は、「未来を見ないようにしながら体を動かすこと」によっても「過去を見ないようにしながら体を動かすこと」によっても、ここに言う「動中の工夫」を成すことができる、言い換えるならば、体の動きの中で真我を体現することができる。既に承知しておられるように「絶対の今に在りながら体を動かすこと」によってそれができる以上、「未来を見ないようにしながら体を動かすこと」によっても「過去を見ないようにしながら体を動かすこと」によっても当然それができなければなりません。前述のような理由により、これら三つは突き詰めるとイコールになるのですから。
このような次第で「絶対の今に在りながら体を動かす」という方法は、「未来を見ないようにしながら体を動かす」という方法もしくは「過去を見ないようにしながら体を動かす」という方法のいずれかに置き換えが効くわけです。で、既にご紹介済みの「唐突法(方法無き方法)」は前者をより具体的な形にしたものであり、「過去断ちの法」は後者をより具体的な形にしたものだとお考えください。
(続く)
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