雑談の続き(動中の工夫について更に考える)


その五

真我に備わる側面のいくつかをもう一度簡単に見ておきましょう。
@我々が認識しているモノを有りのままに見ているという側面。
A我々が認識しているモノと一体化しているという側面。
B我々が認識しているモノから「垂直方向」に離れているという側面。
C不動の存在という側面。
D絶対の今に在るという側面。
思いますに、この@からDまでの中で最も異質で一般の人々に理解しづらいのは「垂直方向」なんていう不可解な言葉が含まれているBではないでしょうか。Bとして取り上げた“我々が認識しているモノから「垂直方向」に離れているという側面”なるものの意味を当サイトの前々からの読者ならば知的には理解できるでしようがそれでも、今いちピンと来ないものも感じておられるに違いありません。それでBに関しては少し言葉を足させていただきますが、我々が認識しているモノから「垂直方向」に離れている、というのは言い換えれば、「我々が認識しているモノとは所属している世界が異なる」ということ、もしくは「それらが所属している世界の外側に在る」ということでもあります。余計に訳が分からなくなったようでしたら、申し訳ないのですけれども。
で、これも前回のおさらいになりますが、次の二つの方法によって我々は体の動きの中で、@からDまでを含めた真我の全側面を体現できるようになっております。
「未来を見ないようにしながら体を動かす」という方法、および「過去を見ないようにしながら体を動かす」という方法。
この二法が何故、真我の全側面とどのつまりは真我そのものを体の動きの中で体現するための方法たり得るのかということにつきましては、ここでは繰り返しません。この二法のいずれかによって我々は体の動きの中で真我を体現できるということの意味も理由も、あなたが既に理解しておられるものとして、話を続けさせていただきます。
さて、前出の真我に備わる五つの側面すなわち@からDまでの中で最も異質で不可解なものはBであろうと先ほど申し上げましたが、それらの中で最も基本的で分かりやすいものと言えばやはり@すなわち「我々が認識しているモノを有りのままに見ているという側面」だと思います。私が真我を眼になぞらえることが一番多いのは、そのためです。だからここでは特に、我々が体の動きの中で真我を体現している時の、その側面の具体的な現れ方にスポットライトを当てておきます。
我々が体の動きの中で真我を体現している時、真我はその体の動きを有りのままに見ています。我々が体の動きの中で真我を体現している時、真我に備わる前述の側面すなわち@は具体的にはそういう形で現れます。
これ自体は何の変哲もない誰でも想像がつくような話かとも思いますが、ここで強調しておきたいのは、その真我の見る働きの中には感じる要素は含まれていないということです。真我の見る働きの中には感じる要素は含まれておりませんので当然ながら、真我にとって我々の体の動きを有りのままに見るということは、それを有りのままに感じるということを意味しません。誤解されやすいのですが、そこにあるのは感覚(感じること)を伴わない体の動きの認識です。もしくは、感覚の発生以前にある体の動きの認識です。
心においては何かを見るってことと何かを感じるってこととは繋がってることが多いですが、心とは別物である真我においてはそうはならないわけです。心にとっての「見る」と真我にとっての「見る」は違うとも言えます。その違いを体験的事実として知りたいという方のためにも、ここに言う「動中の工夫」すなわち体の動きの中で真我を体現するための方法はお役に立つのではないでしようか。その一点だけでも、ここに言う「動中の工夫」の存在意義はあると思います。
前述の二法のいずれかを用いて体の動きの中で真我を体現することに成功された時あなたは(成功するかしないかはあなた次第ですが)、真我の、体の動きを有りのままに見る働きの中には思考はもとより感覚さえも含まれてはいないことが体験的事実としてお分かりになるはずです。
体の動きの中で真我を体現することを通して体験的事実として分かるのはそればかりではありません。前出の真我に備わる五つの側面すなわち@からDまでが不可分のものとして、あるいは切っても切り離せないものとしてあるということもまた、それを通して分かるものです。別の言い方をいたしますと、今説明させていただいた真我の見る働きの中にはABCDが全部含まれているということもまた、それを通して分かるものです。
前出の@からDまでが不可分の関係にあることは、前回の話から理屈の上では既に承知しておられると思いますが、体の動きの中で真我を体現してみることで、それが実際にはどういうことなのかというところが分かるということです。
ところで、体の動きの中で真我を体現するための効果的な方法として「未来を見ないようにしながら体を動かす」という方法と「過去を見ないようにしながら体を動かす」という方法の二つがあることは既述の通りですが、ここでキチンと押さえておきたいのは、この二法は体の動きの中で真我を体現するためのものであって、それ以上でもそれ以下でもないということです。
この二法は体の動きの中で真我を体現するためのものであって、それ以上でもそれ以下でもありませんので、例えば色々な運動競技とかスポーツを上手くこなせるようになるための秘伝みたいな感じでこの二法を受け取とってもらったら困ります。また、如何なる運動競技やスポーツの専門家でもない私はこの二法を、如何にもそういうものであるかのように皆さんに申し上げる資格を持ちません。
といってもこれは、何らかの運動競技とかスポーツをなさっておられる方に「前述の二法を取り入れないでください」という意味ではもちろんありません。個人的な判断でそうなさりたい方はそうなされば良いのではないでしようか。要するに私としてはこの二法の実践を、彼らに勧めもしないし止めもしないということです。
ついでながら、運動競技やスポーツを研究しておられる方から例えば「こんなもん何の役にも立たないじゃないか」というような的はずれな御意見だけは賜りたくないとも思っております。繰り返しますが、くだんの方法はそもそもは、そういうことの役に立ててもらうことを狙いとして創出したわけではないのですから。
話は変わりますが、「未来を見ないようにしながら体を動かす」という方法の具体形である「唐突法(方法無き方法)」と、「過去を見ないようにしながら体を動かす」という方法の具体形である「過去断ちの法」を見比べてみて、私はこう思います。前者がコツという色合いが強いのに対して、後者は技術という色合いが強い、と。
コツと技術の違いについて説明しはじめたら長くなりそうなので止めておきますが、両者の違いについて一つだけ申し上げておきたいのは、多数の方々にやり方を説明して実践していただいた場合、結果にムラの出やすいのがコツで、結果にムラの出にくいのが技術だということです。
そうした観点から、体の動きの中で真我を体現することに関心をお持ちの方に私がまず取り組んでいただきたく思うのは、技術という色合いの強い「過去断ちの法」です。コツという色合いの強い「唐突法」は取あえず後回しにしてください。
「過去断ちの法」の要領が分かったら結果的に「唐突法」の要領も分かるものです。両者は深いところでは繋がっているからです。だからまず「過去断ちの法」の要領を掴み、その後で「唐突法」の要領を掴み、どちらもできるようになったら最終的にどちらを取るか、自分の好みに従って決められたら良いのではないでしようか。
(続く)
TOP INDEX BACK NEXT