雑談の続き(動中の工夫について更に考える)


その七

既述のように体の動きの中で体現されている時の真我というものは、捉える角度によって色んな顔(側面)があり、色んな風に描写できますが、その中でも一番分かりやすい顔はやはり、“体の動きを有りのままに見ている意識”という顔でしょう。前回の話の伝で行くならば、“体の動きを有りのままに見ている存在”と申し上げてもよいのですが、ここでは「存在」という言葉の代わりに「意識」という言葉を使わせていただきます。
ここに言う意識は心とは別物である真我のことを指していますので当然ながら、心に特有の感じる機能はそこにはありません。従って、前述の“体の動きを有りのままに見ている意識”というのは“体の動きを有りのままに感じている意識”ということなのではありません。意識という言葉は心の別名として使われることが多いので、そこのところ誤解されやすいのですけれども。
この、感覚(感じること)を伴わない“体の動きを有りのままに見ている意識”なるものが実際にはどういうものかってことは、ご紹介済みの「唐突法」もしくは「過去断ちの法」のいずれかを実践し、体の動きの中で真我を体現してみればお分かりになるはずです。もし仮にあなたが、前述の二法を実践してみたにも関わらず、そうならなかったとしたら私としては、失礼かも知れませんが、あなたの実践上の不備を疑うしかありません。
「唐突法」と「過去断ちの法」はどちらもシンプルな方法ではありますが、キチンと実践すれば体の動きの中で真我を体現できるようになっておりますし、結果として、そこにおける真我の顔の一つは前述の“体の動きを有りのままに見ている意識”であることが、体験的事実として分かるようにもなっております。
このようなわけで、体の動きの中で体現されている時の真我はある角度から眺めると、“体の動きを有りのままに見ている意識”という顔をしているのですが、別の角度から眺めるとそれは“体の動きと一体化している意識”という顔もしています。更に、もう一つ別の角度から眺めるとそれは“体の動きから「垂直方向」に離れている意識”という顔もまたしています。“体の動きから「垂直方向」に離れている意識”という言い方が難しいようでしたら、“体の動きの「外側」に在る意識”という言い方に代えても良いのですけれども。この辺りの消息は、前回までの話をお読みの方には、よく分かっておられるはずです。
この辺りの消息というのは言い換えれば、ここに言う“体の動きを有りのままに見ている意識”なるものは眺める角度によっては“体の動きと一体化している意識”のようにも映るし、“体の動きから「垂直方向」に離れている意識”のようにも映るということでもあるわけですが、皆さん、これって面白いとは思われませんか?
その面白さがお分かりにならない方は、注目してみてください。“体の動きと一体化している意識”のようにも映るし、“体の動きから「垂直方向」に離れている意識”のようにも映る……という部分に。私が面白いと申し上げるのはより具体的にはこの部分のことですが、この部分が面白いのは「何かと一体化する」ってことと「何かから離れる」ってこととは矛盾しているからです、あるいは逆行し合っているからです。
ここに言う“体の動きを有りのままに見ている意識”には、その矛盾し逆行し合っている二つの要素が同時に含まれているというところが面白いのです。
(続く)
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