雑談の続き(動中の工夫について更に考える)


その八・最終回

私の言う「動中の工夫」とは、真我をもって体を動かすための工夫ということでもありますが、その真我とは潜在意識のことではありません。まして、顕在意識のことでもありません。真我は顕在意識と潜在意識の両方から成る心とは全く異質な何かなのです。
従って真我は、我々を成り立たせている心でも体でもない第三の存在と見ることもできます。心でもなく体でもない第三の存在と言っても、心と体の中間という意味ではないってこと、押さえておいてください。
このように申し上げると、我々には体の他には心しか無いものだとばかり思い込んでおられる方は、「そんなものが本当にあるのか?」「そんなものは話の中だけに出てくる架空の存在に過ぎないのではないか?」と、眉にツバをつけたくなるかも知れません。が、私が真我と位置付けている心でも体でもないものの存在は、「動中の工夫」の具体的実践法としてご紹介済みの「方法無き方法」もしくは「過去断ちの法」を実践してみればお分かりになるはずです。やり方に落ち度さえなければ、それを実践している間は、心ではない何かが体の動きの主になっており、それによって体の動きが率いられるようになっているからです。シンプルな割には、そういう誰もが予想し得ないような効果のあるのが前出の二法なのです。
その体験はあなたに、真我という名の心でも体でもないものの存在を明らかにしてくれるに違いありません。それだけで悟りがモノになるとまでは申しませんけれども。
ところで誰もが体験しておりますように、心で体の動きを率いている時の、心の中にある「体の動きをこう持って行こうという意図」は基本的に想念(イメージも含めた想念)という形を取ります。それに対して、心ならぬ真我で体の動きを率いている時の、真我の中にある「体の動きをこう持って行こうという意図」は想念という形を取りません。想念には潜在意識の奥の奥から来る最も精妙なものから顕在意識から来る最も粗大なものまで様々なレベルがあることはご存じの通りですが、真我の中にある「体の動きをこう持って行こう」という意図はそのいずれの形も取らない、というか取れないわけです。想念は心あってこそのものであることを考えますと、心ならぬ真我においてそうなるのは当然のことだとも言えます。
というわけで、真我の中にある「体の動きをこう持って行こう」という意図は常に想念という形を取る前のものとしてあります。従って真我で体の動きを率いるということは、より具体的に言い換えますと、想念という形を取る前の、もしくは想念となって現れる前の「その意図」で体の動きを率いるということでもあります。それにしても、意図には想念となって現れる前の段階があるということ、皆さんには「初耳」だったかも知れません。
想念となって現れる前の「体の動きをこう持って行こうという意図」で体の動きを率いた時の特徴の一つは、意図の起こりと体の動きの起こりとの間に時間的なズレが全く無いことです。それがどうしたの?と突っ込まれると困るのですけれども、それが何の役に立つのかという話は別にして、そこではまず先に意図が起こり、その次に体の動きが起こるという流れにはならず、意図の起こりと体の動きの起こりが語の厳密な意味において同時になります。見方によっては、体の動きの方が意図よりも先に起こっているようにさえ映るかも知れません。といってもこれは、前者と後者の間に如何に時間的なズレが無いかということを強調するための比喩として申し上げているのですけれども。
余談ながら、このようなことを今偉そうに述べている私が身体運動の専門家でないことは前にもお断りした通りです。だから私は、身体運動の中でも特に悟りや真我と繋がりのある部分に関してだけはそれなりに自分の見解を述べることができますが、それ以外の部分に関してはからきしダメです。それ以外のことは丸きり何も分かりません。ドシロートも良いところだと思います。
私は身体運動それ自体に対する関心から前出の二法を開発したわけではありません。真我(私の言う真我)と体の動きという、一見したところ絶対に結びつかなさそうに映る二つのものを、どうにかして結びつけることはできないものだろうか? もしも万が一にも結びつけることができたとしたら一体どんな感じになるんだろうな? といった好奇心と興味にかられて研究を続け、前出の二法に辿り着いたという次第です。
いずれにしても前出の二法が、どこかで、どんな風にか、誰かの役に立ってくれたら嬉しいですね。
(終わり)
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