心を超えて


E何も思わず何も感じない

※ここ一年数ヶ月の間、未完のまま放置してあった『心を超えて』を再開いたします。今回のお話は単独でも読める内容になっておりますので、お読みになる前に必ずしも前回までのお話を復習しておかれる必要はないでしょう。もちろん復習しちゃいけないってことではありませんけれども。最終回となる次回のお話も同様です。
心を脇に置くことが悟りへの唯一の道であること、かねてより申し上げている通りだが、心を脇に置くというのは言い換えれば「何も思わない、何も感じない」に徹するということでもある。といってもそれを、前後不覚になったり眠ったようになったりすることとはお受け取りになりませんように。ここに言う「何も思わない、何も感じない」に徹する、には「ちゃんと起きてる状態で」ということが前提として含まれているのだ。
当サイトを開いてお読みになるほど悟りに関心を持ってらっしゃるあなたなら、感じることが悟りへの道であるという説が精神世界という分野で広く流布していることはご存じかと思うが、ここではしばらく、それは横に置いてといていただきましょう。「何も思わない、何も感じない」に徹することが我々を悟りへと導いてくれる経緯の一端を、これからお話ししたい。
悟った時、すなわち真我が顕在化した時、明らかになることの一つは、自分の肉眼に映る景色を見ている主は実は三次元空間の内側にいるこの私ではなく、その外側に存在する真我であるという事実である。悟ってはじめて自分の肉眼に映る景色を見ている主がその真我になるというのではない。元からそうだったことが悟ってはじめて明らかになるということである。だから逆に申せば、悟りが起こる前の人々が抱いている「肉眼に映る景色を見ている主はこの私だ」という思い込みは錯覚だってことになる。
我々にとって、前述のような錯覚の中に居る状態と、肉眼に映る景色を見ている主は真我であることが明らかになった状態とどのつまりは悟りの状態との間にある距離は計り知れないが実は、両者の間には中間的な状態というものがある。両者の間にある中間的な状態とは「肉眼に映る景色を見ている主は誰なのか分からない」という白紙状態のことである。この状態は悟り未満だとはいえ、「肉眼に映る景色を見ている主はこの私だ」と錯覚している状態よりも錯覚が無い分だけ悟りに近いとは言える。
従って我々は、「肉眼に映る景色を見ている主はこの私だ」と錯覚している時よりも、「肉眼に映る景色を見ている主は誰なのか分からない」白紙状態で居る時の方が、悟りにより近いわけである。
その白紙状態になるための方法がある。何も思わず何も感じない(感じようとしない)、というのがそれだ。試してみればお分かりになるはずだが、何も思わず何も感じてない時の我々は、「肉眼に映る景色を見ている主は誰なのか分からない」白紙状態になっているものだ。
そこから見て取れるのは、アチラにある景色をコチラに居る私が見ているという図式は自分の思いや感覚の中、もしくは心の中にしか見出せないという事実である。それによってさらに、世界という囲いとその中に置かれている私という二つのものもまた自分の心の中にしか見出せないってことにまで、我々は思い至ることができる。
ついでの話だが、「アチラにある景色をコチラに居る私見ている」かのように我々の心に錯覚させる契機になっているのは、我々の身体に付いて回る身体感覚の存在ではないだろうか。私がそのように考えるのは、もし仮に我々の身体に身体感覚というものが無かったならば、アチラに対するコチラという概念は我々の心に発生しにくいはずだからである。ピンと来ない方は思いを馳せていただきたい。心にとっては身体感覚のある場所もしくはその周辺がコチラであり、そこから離れた場所がアチラであるという事実に。
このようなわけで心の側からしてみると、「アチラにある景色をコチラに居る私が見ている、という錯覚に自分が陥るのは余計な身体感覚のせいである。」ということにもなるのだろうが、もしも身体感覚に物言う口を与えたならば、それに対してはこう反論するかも知れない。
「私の存在に影響されて心がああいう錯覚に陥るのはひとえに、心に備わるひとりよがりな連想作用のせいである。」
いずれにしても、錯覚の原因が何であれ、「アチラにある景色をコチラに居る私が見ている」という錯覚の主が心であることだけは間違いないので我々は、身体感覚の有無に関わらず、心を脇に置いている間だけは、その錯覚をも同時に脇に置くことができている。その錯覚をも脇に置くってことは言い換えれば、「肉眼に映る景色を見ている主は誰なのか分からない」という、この世に生まれたばかりのころは誰もがそうであったはずの白紙状態に戻るということである。
その白紙状態が、前述のような悟りの状態へと移行する可能性があるのはどんな時だかお分かりだろうか。
その白紙状態が、前述のような悟りの状態へと移行する可能性があるのは実は、我々がその白紙状態を受け入れ、白紙状態のままで居続けている時に限られる。より具体的に申せば、肉眼に映る景色を見ている主を突き止めてやろうなんて考えを起こさず、「分からない」ままの自分で居続けている時に限られる。
もしもそんな考えを起こしたら、せっかく悟りに近づいていたものがまた逆もどりしてしまう。それというのも、悟りとは、我々が心を脇に置き切った時向こうからやって来る何かであり、分からないものを分かろうとする心の動きをも停止しなければ心を脇に置き切ったことにはならないからである。
心を脇に置くことすなわち「何も思わない、何も感じない」に徹するってことの中には、分からないものを分からないままにしておくということも含まれているのだ。
Fに続く
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