心を超えて


F《最終回》悟りへの道と悟りの定義はワンセット

心理学などでは心の一番奥深い層は集合的無意識と称され、全宇宙に遍在しているとも言われている。この全宇宙に遍在しているとも言われる集合的無意識なるものは個体としての私から見ると、真我(私の言う真我)とはまた別の意味合いにおいて、「自分を超えた大いなる存在」だと言える。
個体としての私にとっては、真我が「自分を超えた大いなる存在」なら、くだんの集合的無意識もまた「自分を超えた大いなる存在」であることに変わりはない。「自分を超えた大いなる存在」という同一の枠で括れるという点では、前者も後者もお仲間だ。ちょうど我々日本人から見ると、宇宙人も外国人も「日本人ではない」という共通点に着目する限りではお仲間であるのと同じように。
だが見落としてならないのは、宇宙人と外国人とでは丸きり違うように真我と集合的無意識では丸きり違う、という事実である。どう違うのか? ですって……。チンポの先がチョット違う、じゃなくて例えば、前者はこの宇宙空間の外側にあるのに対して後者はこの宇宙空間の内側にあるってところも違うし、前者は心とは別物であるのに対して後者は心の最奥部であるというところもまた違う。
ちなみにそんなに詳しいわけではないが、いにしえの中国では前者を無極と称し、後者を太極と称して区別していたようである。
真我が顕在化する悟りに到る前の方々にとっては、前述のような両者の違いはそのまま、その存在を想像できるものとできないものとの違いだとも言えるだろう。彼らは、前述のような真我の存在を想像することはできないが、前述のような集合的無意識の存在なら想像できるからである。
そんな彼らは基本的に、「自分を超えた大いなる存在」と言うと集合的無意識以外のものを連想することができない。そして、悟りによって顕在化するとされている真我を集合的無意識のことと取り違えやすい。
そういう背景もあってか、悟りへの途上にある方々の多くは、この私が集合的無意識の存在を感じたり、それと繋がったり一体化したりすることが悟りであるかのように思い込んでらっしゃるように見受けられる。
その思い込みが誤解だと言えるのは、悟りとは真我が自分自身の存在に気づくことであるからだ。心(顕在意識のみならず集合的無意識までも含めた心)とは別物である真我が自分自身の存在に気づくこと、それが悟りというものである。ピンと来ない方のために別の言い方を試みるならば、悟りとは真我が「我に帰る」ことだとも言えなくもない。
真我が自分自身の存在に気づくこと、もしくは真我が「我に帰る」ことを意味する悟りにおいて、思ったり感じたりするこの私の関与は無い。また、真我が自分自身の存在に気づくというその出来事を、この私が観察するなんてことも無い。悟りにおいては、この私の出番は一切なく、全ては真我の中だけで起こるのだ。
このようなわけで、悟りへの道として私が提示している「心を脇に置く」という方法は詳細に申せば、私による真我への気づきではなく、真我による真我自身への気づきを引き出すためのものだとも言える。
心を脇に置くことが悟りへの道だなんてことを申し上げると、この私が集合的無意識を感じたり、それと繋がったり一体化したりすることなどを悟りと見なしておられる方々からしてみると「心を脇に置くことが何故、悟りへの道たり得るのか?」となるかも知れない。いや、彼らがそういう疑問を抱くのは自然な成り行きというものである。彼らの考えている悟りすなわち、集合的無意識を感じたり、それと繋がったり一体化したりすることなどと、心を脇に置くこととは普通に考えて結び付きそうには見えないからである。顕在意識のみならず集合的無意識までをも含めた心を脇に置くことと、それらのこととがどうして結び付き得るだろう。
前述のような疑問をぶつけられた場合、私がまず彼らに指摘したいのは、そもそも私が定義している悟りと、彼らが定義している悟りは同じものではない、ということである。どちらの定義が正しいのかという話は別として、悟りの定義が違えば、悟りへの道として割り出されるものもまた違ったものならざるを得ないってことを理解していただきたいからに他ならない。
「悟りとは真我が自分自身の存在に気づくことである」、というのが私の悟りの定義であることは前述の通りだが、前回の話を加味して定義し直すとしたら、次のようになる。
「悟りとは、肉眼に映る景色を見ている真の主である真我が自分自身の存在に気づくことである」
肉眼に映る景色を見ている真の主である真我が自分自身の存在に気づく消息に迫りたかったら、夢から覚める時のことを思い出してみられるとよい。夢の中の景色を見ている真の主は夢の中の私ではなく寝床に居る私であることはご存じの通りだが、その寝床に居る私が夢から覚めて自分自身の存在に気づく消息と、前述の消息とはどこか似ているからである。
悟りにおいて真我が自分自身の存在に気づく消息と、夢からの覚醒において寝床に居る私が自分自身の存在に気づく消息には共通するものがある。悟りが覚醒と称されることがあるのは、そのためだ。
私が、心を脇に置くことをもって悟りへの道とするのは、こうした悟りの定義を踏まえてのことなのである。悟りへの道として私が提示している「心を脇に置く」という方法と、前述のような悟りの定義はセットでお受け取り願いたい。
《終わり》
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