柳は緑、 花は紅

C現実を超越した意識の出現

さてそれでは、主客合一ということに関して注意すべき点を押さえたところで、この話のハイライトとも言うべき話をさせていただこう。主体と客体が一体化した時、突如として訪れる意識の変容のことだ。
といってもこれは体験しない限り具体的なことは分かるはずもないことなので、とりあえず今は知的な理解にとどめておいていただくだけでも構わない。
主体と客体がこれまで述べてきたような形で一体化すると、主体も客体も共に消えて、主体でも客体でもない第三の意識が出現するのである。といって悪ければ、その中に主体と客体の両方が含まれている意識が出現する、と言い換えてもよいだろう。この全く新しい意識は、主体と客体が一体化すると同時に間髪入れずに出現する。どこかの誰かさんみたいに、ちょっと一本すってから……ってんじゃないんだな。
その様子は、あたかも夜見る夢から目覚めた時のようでもある。悟りが「この世という夢からの目覚め」といった言い方をされることがあるのはそのためだ。
ご存じのように夢から覚めると、夢の中の私も世界も同時に消え去り、そのいずれにも属さない現実界の自分が覚醒するが、その感じと今言った第三の意識が出現する感じはよく似ている。その時、眼に映る全てのものは、自分というものも含めて、本当は存在していないということが了解される。認識の革命的な変化と言えるだろう。
面白いのは、そうした新しい認識がものを微塵の狂いもなく有りのままに見るという、徹底的なリアリズムと表裏一体のものとしてあるということである。主体と客体が一体化した状態とは、これまで述べてきたように、ものを徹底的に有りのままに見ている状態のことなのだから。
にしても、ものを徹底的に有りのままに見るというリアリズムの極まった中に、全てのものは存在しないという理解が含まれていようとは、いかにも逆説的ではないか。徹底した現実直視によってこそ、現実は超越されるのである。現実を直視している意識がそのまま、現実を超越している意識なのだとも言える。我々は、ものを有りのままに見るという形でリアリズムに徹している間だけ、現実を超えた世界即ち、悟りの世界に同時存在できるのである。一つご注意願いたいことがある。ここに言う「現実を超えた世界」と、現実に背を向け心の内側に入って行くことによって見ることのできる「現実を超えた世界」とは別物なので、一緒になさらないように。
以上を踏まえた上であらためて、「柳は緑、花は紅」という言葉に触れてみていただきたい。柳を緑のままに花を紅のままに、即ち柳や花を有りのままに見ていささかのまぎれもないことの中に、私も柳も花もない世界が展開しているのである。
ところで、ものを有りのままに見るという、たったそれだけのことが、主客共に無き世界に人を連れて行くことができるのは、一体どうしてであろうか。それについて考えてみよう。
考える上で、重要な鍵になるのは、絶対の今とは何か? ということについての理解である。あなたはご存じだろうか。絶対の今には時間の幅が全く無いという事実を。絶対の今には時間の幅が全く無いのである。時間の幅がわずかでもあれば、言葉の定義の上からも、それは絶対の今とは言えなくなるからだ。
余談だが、こういう話を少し前、MIXIの日記で披露したことがある。で、読んでくれた人の反応を見て私が思ったのは、こういう話は世間一般の人にはあまりなじみがなさそうだな、ということであった。
だからもう少し言葉を足したいのだが、そのとっかかりとして、くだんのMIXIの日記で私が披露した話をちょろっと抜粋しよう。
『辞書では今という言葉をどう定義しているのだろうと思って、調べてみましたら、一番目の説明はこうでした。「過去と未来の境目の瞬間」。(今という言葉についての)私の定義は表現の上ではこれに近いですが、少し違います。「過去と未来の境目」というのが、それです。お気づきのように、瞬間という言葉が私の定義からは外されています。』
このコメントで私が伝えたかったことは、こうである。今という言葉の意味を厳密に捉えると、瞬間と呼ばれる微かな時間の幅さえもそこには含まれてはいない。
これを理解する前にまず押さえておいていただきたいのは、瞬間と呼ばれるものにも、極めて微かなレベルではあるが時間の幅があるという事実である。この事実を踏まえて、瞬間というものを眼に見えるもので象徴するとしたら、点ではなく線になるはずである。極めて短い線ではあるだろうが、まかり間違っても点にはならない。点には長さが無いので、時間の幅がある瞬間というものの象徴たり得ないからだ。
時間の幅があるということは当然のことながら、未来から過去へと流れゆく時間の経過がそこにはあるということである。それは瞬間と今とは別物であることを意味してもいる。それが分かれば、今というものに時間の幅は全く無いということが理解しやすくなるであろう。今と瞬間という二つのものの混同こそが、その理解を妨げている元凶だと思われるからである。
もはや言う必要もないだろうが、瞬間の象徴が極めて短い線なら、今の象徴は点である。点に長さの幅が全く無いように、今というものには時間の幅が全く無い。別の例えで言うならば、ヨウカンを真ん中から切った時、その切れ目自体にはヨウカンは含まれていないということにも、それは似ている。今とは正にヨウカンの切れ目と同じで、そこには、これといったいかなる実体も存在しないのである。現象世界に眼を向ける限りでは、という但し書きがつくのだけれども。
とはいえ、今という言葉は世間一般では、そこまで厳密な意味合いにおいて捉えられてはいない。今という言葉の頭に「絶対の」という形容詞をわざわざ付けるのは、世間一般で用いられている今という言葉と区別するため、言い換えると、これまで述べてきたような意味合いを際だたせるために他ならない。
さてそれならば、その絶対の今が時間の最小単位であるということは、一体何を意味しているのだろうか?あるいは、その絶対の今の集積によって時間が成り立っているということの意味は、一体何であろうか?
ズバリ申し上げるならば、時間というものは本当は存在していないということである。時間が全く無い絶対の今をどれだけ積み重ねようとも時間の幅ゼロにしかならないことは算数の初歩であり、自明の理であるからだ。更に言うならば、時間の幅ゼロの中では何一つ存在できないということもまた、論をまたない。
と、いうことはである。し、し、し、信じられないかも知れないが、時間の中にいる我々も、我々に見られている物も世界も何もかもが存在していないってことではないか。いや、ちゃーんと存在してるよ、てなことをおっしゃることなかれ。ここでは、その言葉は正確ではない。それを言うなら、存在しているように見える……と言うべきなのだ。存在しているように見える、というのなら話は分かる。だがそれは、存在している、とイコールではない。哲学的過ぎるかな。
考えてもみられよ。一体全体、時間の幅が全く無いところに何が存在できるというのだ。ワニさん位のものではないか。いや、ワニさんもだめか……。
例えばの話、あなたも、あなたが踏んづけたり踏んづけそうになったりしたケンプンも、実在ではなかったということである。
とはいえ今のところ、これは理屈でしかない。理屈じゃないところでそのことを知るためには、実際に身をもって絶対の今の中に切り込んで行くしかない。
そのための手段の一つが、話を戻すが、ものを有りのままに見るということなのである。いう間でもなくそれは、絶対の今に即してものを見るということに他ならないわけだが、絶対の今に即してものを見るということは、絶対の今に在るということを意味してもいることがお分かりだろうか。そのように言えるのは、絶対の今に在ることなく絶対の今に即してものを見ることはできないからである。
従って、絶対の今に即してものを見れたということは結果的に、絶対の今に在ることができたということにもなる。そして、その絶対の今の中には、私も物も世界も存在しないことは既述の通りである。
三段論法みたいだがこれが、現実を有りのままに見ることによって現実を超越できる理由である。現実を直視している意識がそのまま現実を超えた意識であることの理由である。
(Dに続く)
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