『心を超えて』を補足する


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『心を超えて』の終わりの方でも申し上げたことではあるが、個体としての私から見ると心の奥深くにある集合的無意識も、心の外側にある真我(私の言う真我)も、「自分を超えた大いなる存在」であることに変わりはない。集合的無意識が心の内側に存在しているのに対して真我は心の外側に存在しているという違いはあるとしてもである。
従って個体としての私にとって、現状の自分を超えるために取り得る道は少なくとも二つはあることになる。その中の一つ目は集合的無意識を顕在化させることを目的としたもので、集合的無意識の顕在化を妨げている、ソレよりも浅い心の層を脇に置くという道である。二つ目は真我の顕在化を目的としたもので、真我の顕在化を妨げている、くだんの集合的無意識までも含めた心そのものを脇に置くという道である。心の全てまで脇に置くわけではない一つ目の道と、心の全てを脇に置く二つ目の道、この二つは全く異質である。ちなみに、一つ目の道を行く集団の数は多いのでその中から代表的なものを挙げるのは難しいが逆に、二つ目の道を行く集団の中から代表的なものを挙げるとなると私には禅宗ぐらいしか思い浮かばない。現在の禅宗事情には疎いので現在のことは明言できないが、少なくともかつての中国や日本の禅宗が二つ目の道を行く集団の代表格であったことだけは間違いないだろう。
ついでだから申し上げるが、一つ目の道を歩んでおられる方々からしてみると、いにしえの中国や日本の禅僧の言ってることが理解しづらい理由の一端が、これでお分かりになったのではないだろうか。ここまでの説明からも明らかなように、本来の禅は彼らが関わっている分野とは分野が違うのだから、そうであって然るべきなのである。
さて、悟りはここに言う真我の顕在化によって引き起こされるものなので、今の話に出てきた二つの道のうち悟りに通じているのは後者であることは言うまでもない。集合的無意識までも含めた心そのものを脇に置くことが悟りへの道なのだ。多くの人が誤解しているように、集合的無意識よりも浅い心の層を脇に置くことによって集合的無意識を顕在化させることが悟りなのではない。悟りであるから良くて、悟りでないから良くないとまで言うつもりはないけれども。
ちなみに、集合的無意識までも含めた心そのものを脇に置いた状態のことを、覚者によっては沈黙と称することもある。覚者が悟りへの途上にある人たちに対して沈黙の重要性を説く場合、その沈黙という言葉の意味するものは、集合的無意識までも含めた心そのものを脇に置いた状態のことと見てよい。
沈黙という言葉が一般的な会話の中で使われる場合は必ずしもそこまで厳密な意味合いを持っているわけではないが、沈黙という言葉が悟りへの道として取り上げられる場合に限ってはそこまで厳密な意味合いを持っているということである。
集合的無意識までも含めた心そのものを脇に置くってことは分かりやすく言い換えるならば、思考やイメージのみならず感覚(感じること)までも脇に置くってことである。ご存じのように感覚と一口に言っても、心の奥の奥のそのまた奥から出てくる最も精妙なレベルのものまで視野に入れると結構幅があると言えるが、思考やイメージと共にそれら全てをも十把ひとからげに脇に置くということが、ここに言う心そのものを脇に置くということの意味、ひいては悟りへの道として提示される場合の沈黙の意味なのだ。
人によっては、「思考やイメージや感覚を脇に置く」と申し上げるよりも「思考やイメージや感覚が起こる前の状態にとどまる」と申し上げる方が、分かりやすいかも知れない。とどのつまりは、どちらも同じことではあるのだが。
ところで巷には、前述の話に逆行して、沈黙と「感じること」とを両方あわせて悟りへの道として提示している向きもある。これが矛盾以外の何物でもないのは、前述の話によっても明らかなように、悟りへの道として提示される場合の沈黙と言う言葉の意味するものは、思考やイメージと共に感覚(感じること)さえも脇に置くということに他ならないからである。おそらく彼にとっては、そこで使われている沈黙という言葉の意味するものは思考の出所である顕在意識だけを黙らせることなのだろう。が、そういう解釈が許されるのは、悟り絡みではない一般的な会話の中で沈黙という言葉が使われる場合だけだ。
というわけで彼の説法においては、沈黙を悟りへの道として提示している箇所は問題が無いが、「感じること」を悟りへの道として提示している箇所は問題が有ると言える。これは、同一人物の説法(悟りについての説法)の中に問題が無い箇所と問題が有る箇所とが混在している場合もあるということの一例である。
これは私の勘ぐりに過ぎないが、その問題が無い箇所というのは覚者の言葉をそのまま受け売りしたものであり、その問題の有る箇所というのはソレに対する彼自身の解釈を開陳したものではないだろうか。彼の場合、自分自身の解釈を伏せて受け売りだけに徹しておれば、何一つ問題無かったものをと悔やまれる。
ついでだが、これに似たことは絵画の贋作においても見られるようだ。絵画の贋作と言えば、あのゴッホの作品として広く世間に知られているものの中にさえ、ゴッホ作品の研究家が見れば贋作と分かるものが含まれているらしい。某ゴッホ作品の研究家の話によると、その贋作は一見した限りではゴッホが描いたもののように見えるが、細部にまで眼を向けてみると、ゴッホだったらこんな風には描かないと思われる箇所が混じっているのだそうである。言い換えればゴッホ作品の贋作においては、一つのキャンバスの中にゴッホらしい箇所とゴッホらしくない箇所が混在しているということでもあるわけだが、これって先ほどの話すなわち、同一人物の説法の中に覚者らしい箇所と覚者らしくない箇所が混在しているという話と似てはいませんかね。
それにしても、心の浅い層を脇に置くとそれよりも深い心の層が顕在化するという話は比較的よく知られているのに、浅い層も深い層も全部ひっくるめた心そのものを脇に置くと真我が顕在化するという話は少なくとも今のところ、ほとんどの人が知らなさそうに見える。これでは、前述のような誤解が生まれるのも自然な成り行きというものである。

A

真我はこの宇宙空間の外側に存在しているという一点だけでも、ありとしあらゆるものの中で真我ほど途方もないものは無いと言える。何が途方もないかと言って、この宇宙空間の外側に存在しているということほど途方もないことが有るわけはなかろう。その途方もないものの王様とも言える真我を顕在化させる唯一の道は再三申し上げているように、心を脇に置くという超シンプルなことなのだ。真我が途方もないものの王様だとしたら、心を脇に置くことはシンプルなことの王子様ぐらいにはなるかも知れない。
どちらにせよ、心を脇に置くということのシンプルさと、それによって顕在化する真我の途方もなさとの間に大きなギャップを感じない者は居ないはずである。中にはそのギャップの大きさゆえに、心を脇に置くことと真我を顕在化させることとを結び付けられない向きもあるだろう。というより、そういう人の方が多いのではないかとさえ思われる。彼らに成り代わって彼らの気持ちを代弁するとしたら、おそらくこんな具合だろうか。
「もしも本当に真我がこの宇宙空間の外側に存在しているのだとしたら、心を脇に置くというようなシンプルな方法でそんな真我を顕在化させられるわけがない。そんな真我を顕在化させるためには、それに見合うだけの込み入った方法を必要とするはずだ。」
こういう想いは多かれ少なかれ誰の心の中にもあるに違いないが、それを緩和するために私が指摘したいのは次のことである。シンプルな方法が必ずしも実践しやすいとは限らないしまた、込み入った方法が必ずしも実践しにくいとは限らない。もちろん一般的に見て、シンプルな方法は実践しやすいことが多く、込み入った方法は実践しにくいことがこと多いのは確かだが、それとは逆の場合もあるということである。
心を脇に置くという方法には、あの真我を顕在化させるという結果に見合うだけの複雑さや精妙さは無い代わりに、それに見合うだけの難しさはあると言える。心を脇に置くってことはシンプルではあるが、極めて難しいことなのである。ある意味、どれほど込み入ったことよりモノにしにくいとさえ言えるだろう。心を脇に置くってことを甘く見てはならないのだ。
心を脇に置くための具体的実践法としてよく知られているものの一つに、一切の目的意識を捨てて「ただ座る」という座禅があるが、それが如何に難しいものかってことは座禅で真我の顕在化を意味する悟りに到った人の、絶対数の少なさからも明らかである。
ここで、心を脇に置くことが真我を顕在化させる唯一の道であること、ひいては悟りへの唯一の道であることの理由を述べておきたい。一言で申せばそれは、心こそは真我の顕在化を妨げている唯一のものである、という点にある。心こそは真我の顕在化を妨げている唯一のものであるがゆえに、心を脇に置くことが真我を顕在化させる唯一の道たり得るのだ。
このように申し上げると、では何故心こそは真我の顕在化を妨げている唯一のものだと断定できるのか? というさらなる疑問を抱かれる向きもあるかも知れません。が、ここではそのことに関しては、皆さんがご自分で考えるためのヒントを示すにとどめておきます。
「我々は心を脇に置いている時すなわち何も想わず何も感じていない時、心理的な意味においてだが、この宇宙空間の中には居らず、未来から過去へと流れる時間の中にも居ない。」というのがそれです。難しいかも知れませんが興味のある方は、これをヒントにご自分で答えを探ってみてください。私からの解説はまた別の機会に、ということで……。
話を戻すが前述のようなわけで、真我を仮に宝石に譬えるとしたら、心はさしずめソレを覆い隠し見えなくさせている一枚の布のようなものだとも言える。宝石を覆い隠している布を取り払ったら宝石が現れるのと同じように、心を脇に置いたら真我が顕在化するというわけである。
これに関して銘記しておいていただきたいのは、我々は真我そのものに直接的に働きかけて真我を顕在化させることはできない、ということである。相手がくだんの布の下に隠れている宝石ならば、布の下に手を入れて宝石を引っ張り出すといった直接的な方法の講じようもあるが、心の「下」に隠れている真我が相手の場合は、それに類する直接的な方法が効を奏することは無いのだ。その場合、何らかの直接的な方法を講じるためには心を働かせねばならず、心を働かせるってことは心を脇に置くことに反しているからである。もっと積極的な言い方をするならば、それは心を脇に置くことに反しているという以上に、真我を覆い隠している唯一の存在である心を増長させることの役にしか立たない。
というわけで真我を顕在化させるために我々が取り得る道はやはり、ソレを覆い隠している心を脇に置くという間接的かつ消極的な、しかして難しいことこの上ない道だけってことになる。
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