的外れな肯定、的外れな否定


当コーナーの名称ともなっている悟談という言葉は私の造語で、「悟りにまつわる話」あるいは「悟りに関する見解」というほどの意味だが、ここではそれと同じ意味で、「悟り談義」という言葉を使わせていただく。
悟りの何たるかについて全くの無知である時、本来ならば人は、他人の悟り談義を肯定することも否定することもできないものである。誰であれ、他人の悟り談義を肯定もしくは否定できるのは、「悟りとは何か?」ということに関して自分なりに何かを知っている場合に限られる。「悟りとは何か?」ということに関して全く何も知らない白紙状態の人には、他人の悟り談義を肯定したり否定したりするための基準ってものが無いからである。他人の悟り談義に接した時、それに対して彼らにできることと言えば、信用するかしないかのどちらかでしかない。それは、肯定するか否定するかということとはまた次元の違う話である。
悟りへの途上に身を置きながら、他人の悟り談義を肯定したり否定したりする傾向のある向きには耳が痛いに違いない話がここにある。悟りの何たるかは悟ってみるまでは誰にも真には分からない、というのがそれだ。悟りの何たるかは悟ってみるまでは誰にも真には分からない、というのは言い換えれば、人は実際に悟ってみるまでは間違った悟り観しか持ち得ない、ということでもある。我々から見て「異なる地平」で起こる悟りとはそういうものなのだ。
従って悟りへの途上にある方々に限って申せば、他人の悟り談義を肯定するにせよ否定するにせよ、悟りに対する正しい理解の上に立ってのことではあり得ない。自分の間違った悟り観に照らしながら、他人の悟り談義を肯定したり否定したりしているのが彼らの常だ。すなわち彼らは常に、自分の間違った悟り観に合致する悟り談義は肯定し、そうでない悟り談義は否定する。そこにあるのは的外れな肯定と、的外れな否定だけである。的外れな否定ばかりではなく、的外れな肯定というものも世の中には存在するのだ。
特に、その悟り談義の主が彼らとは「異なる地平」からモノを言う覚者であった場合には、もう一つの問題がそこに加わる。そうでない場合に比べて段違いに、悟り談義の真意それ自体が彼らに伝わりにくいからである。
悟り談義の主が、彼らと「同じ地平」からモノを言う覚者未満の人すなわちまだ悟りへの途上にある人であった場合には、悟り談義の真意それ自体が彼らに伝わりにくいってことはめったに無い。それに対して悟り談義の主が彼らとは「異なる地平」からモノを言う覚者であった場合には、悟り談義の真意それ自体が彼らに伝わることの方がめったに無い。
従って彼らが覚者発の悟り談義に接すると、まず百パーセントに近い確率で、その真意を誤解もしくは曲解してしまう。その上で、前述のような的外れな肯定もしくは否定をすることになる。その実例を一つ挙げておきたい。
覚者発の悟り談義と言えば、例えば「悟りが起こった時、自分は居なくなる」といった物言いを覚者がよくするのはご存じであろう。悟りへの途上にある人たちがその手の物言いに接した時、そこに含まれている「自分」という言葉は顕在意識の自分という風に解釈するのが普通である。そしてその解釈は基本的に、「悟りは(顕在意識の下にある)潜在意識において起こる出来事」という悟り観を背景としている。こういう悟り観は誰にでも思い付きやすく分かりやすいためか、広く流布しているようだ。
が、覚者がそこで「自分」という言葉で言い表そうとしているのは、「顕在意識と潜在意識の両方から成る、より広い意味での自分」のことなのだ。そしてその背景にあるのは、「悟りは顕在意識も潜在意識も二つながら超えたところで起こる出来事」という悟り観である。私の言う「異なる地平」というのはこの、顕在意識も潜在意識も二つながら超えたところのことに他ならないが、この領域は体験によってしか知り得ないようになっている。
というわけで、前述のような「悟りが起こった時、自分は居なくなる」といった覚者の物言いを彼らが肯定したとしても、ご多分に漏れず、その肯定は真意を正しく理解した上での肯定だとは言えない。すなわち、その肯定は的外れな肯定でしかない。
TOP INDEX BACK NEXT