ブログ開設に当たり話しておきたくなったこと


@悟りと欲の関係

ご存じの方はご存じかと思いますが、心の中にある痛みや悲しみなどは、それをありのままに受け容れ直面し続けることで、いずれは終息に到らせることも可能です。が、心の中にある様々な欲に対しては、必ずしも同じやり方が通用するとは限りません。欲の種類によっては、それの実現を目指してやるべきことをやり尽くすという過程を通してしか、終息させられないものもあるからです。
今回は、そんな一筋縄では行かない欲にまつわる話を致しましょう。
悟りに対する欲、すなわち悟りたいという欲さえも捨てなければ悟ることはできない、ということはよく言われますが人によっては、その悟りに対する欲を捨てるだけで悟れる場合もあります。
どんな人かと申しますと、悟りに対する欲だけがその人の欲の全てであるような人です。言い換えれば、悟りに対する欲以外には如何なる欲も無いような人です。が、「自分には、悟りに対する欲以外には如何なる欲も無い」と本心から言える人って、そうそうはいらっしゃらないのではないでしょうか。
「ローマは一日にして成らず」てなことを申しますが、本心からそう言い切れるような自分というものもまた、短時間で作り上げられるほど生易しいものではないと思います。悟りを求めておられる方々のほとんど全ては、悟りに対する欲以外にも何か欲を持っておられるはずです。それらの欲を心の隅に押しやって、見て見ぬ振りをするってことと、悟りに対する欲以外には如何なる欲も持たないってこととは根本的に違います。
もし仮に、前述のような珍しい人が居たとしたらその人は、悟りに対する欲を捨てるだけで悟れたとしてもおかしくはありません。何故ならその人にとっては、悟りに対する欲を捨てることと欲が皆無になることとはイコールであり、欲が皆無になれば、悟りに必要な唯一の条件である「心を脇に置くこと」をクリアできているものだからです。
欲が皆無になれば、悟りに必要な唯一の条件である「心を脇に置くこと」をクリアできている、と言える理由がお分かりでしょうか。それについて考えてみましょう。
過去、現在、未来の三つの中で、欲が叶う可能性があるのは唯一未来だけですので誰においても、心に欲のある間は、心は常に未来に趣いて(おもむいて)いるものです。本人にその自覚があるか否かには関係無くです。欲とは「現在まだ物にできていない何かを、未来のどこかにおいて物にしたい」という思いであることを考えれば、それは明らかでしょう。
そしてこの、欲というもの以外に心を未来に趣かせる原因となるものはありません。逆に申せば、心に欲が全く無くなれば、心は未来に趣かなくなるということでもあります。
これに関しておもしろいのは、心は未来に趣かなくなると自動的に、過去にも趣かなくなるということです。ここに言う未来及び過去とは絶対の今から見た厳密な意味での未来及び過去のことですが、心にはそういう性質があります。心の一つの性質として、未来に趣かなくなると自動的に過去にもまた趣かなくなるようにできているのです。言い換えればそれは、心においては、未来が落ちると同時に過去も落ちるということて゜もあります。
心にとって未来が落ちたら過去は意味をなさなくなるがゆえにそうなるのだと考えられますが、理由がどうであれ我々は、体験によって心にそういう性質があることを知ることができます。
従って心から欲が全く無くなることは最終的には、未来と過去の二方向以外に趣く先を持たない心にとっては動きの停止を意味します。心の動きの停止、それは心が脇に置かれるということの別の表現でもあります。
このようなわけで、悟りたいという欲を捨ててもまだ心にそれ以外の欲を残している人は、悟りに必要な唯一の条件である「心を脇に置くこと」をクリアするところまでは行けません。悟りたいという欲だけが欲の全てであるような人のみ、悟りたいという欲を捨てることで、それをクリアできるようになっているのです。
で、悟りたいという欲だけが欲の全てであるような人が、その悟りたいという欲を捨てるに到る経緯というものは基本的に、一つしか考えられません。悟るために自分にできることをやり尽くし、その全てが失敗した時、というのがそれです。それ以外の如何なる経緯が彼に、最後に残った悟りたいという欲を捨てさせられるものでしょうか。それ以外の如何なる経緯も彼に、悟りたいという最後の欲までも捨てさせるには到りません。
それを考えますと彼らにとっては、悟りに対する欲以外の全ての欲を捨てられるまでになるのと同じく、最後に残った悟りに対する欲さえ捨てられるまでになることもまた、時間のかかるプロセスだと言えます。ただし、その人によき師匠が居た場合、二番目のプロセスを短縮できる可能性はありますけれども。
悟りに対する欲に限らず、何か一つの欲だけを残して他の全ての欲を捨ててしまえた人は、その一つの欲をも捨てるという次のステップを踏むことで、心から一切の欲を落とすことができます。人が心から一切の欲を落とすに到るのは100パーセントに近い確率で、こういう二つのプロセスを踏むことによってです。こういう二つのプロセスを踏まずに、心から一切の欲を落とせる人が居たとしたらそれは、奇跡とさえ言えるのではないでしょうか。全く無いことだとまでは言えませんが、稀なケースであることだけは間違いありません。
これは取りも直さず、前述のような二つのプロセスを踏むことなく、人が悟りに到るのは非常に珍しいケースだということでもあります。「じゃあ、自分もその珍しいケースに当てはまる一人だな」と思われた方に申し上げましょう。この後述べる私の悟り観(悟りの捉え方)とあなたの悟り観に食い違いが無いことを確認した上でなお、同じことをおっしゃるのであれば、私はあなたに脱帽するしかありません。
話を戻しますが、前述のように言えるのは何故かと申しますと、悟るための唯一の必要条件すなわち「心を脇に置くこと」をクリアするためには心から一切の欲を落とさねばならず、心から一切の欲を落とすためには基本的に、前述のような二つのプロセスを踏む必要があるからです。
その意味において、悟りに対する欲に限らず、何か一つの欲だけを残して他の全ての欲を残しえている人というのは、そうでない人たちに比べて圧倒的に悟りに近い位置に居ると言えます。たとえ本人に悟りに対する関心がなかったとしてもです。

A悟りとは「垂直移動」でもある

以上の話からもお分かりのように、悟りというものはそもそもは、欲と名の付くものを落とし切らない限り、物にはでないようになっているものなのです。誰であれ基本的に、欲と名の付くものが全部落ちてはじめて、悟りに必要な唯一の条件である「心を脇に置くこと」をクリアできるわけですから。
心を脇に置くこと、それは言い換えれば「心をどこにも出向かせないこと」でもありますが、この「心をどこにも出向かせないこと」は一般通念に照らすと「自分を現状のままに保ち続けること」のように映るのではないでしょうか。中には、「心をどこにも出向かせないということは、今の自分に如何なる変化も求めないということだ」とおっしゃる向きもあるかも知れません。現状の自分に何らかの変化をもたらすためには、今ここではないどこか出向いて行く先を心は必要とするからです。
そうした見方はある意味では当たっています。ある意味では、と申しますのは「この現象世界の内側から見る限りでは」ということです。この現象世界の内側から見る限りでは、「心をどこにも出向かせないこと」は確かに、自分を現状のままに保ち続けることであり、現状の自分を変えようとしないことであるとも言えます。
が、より大きな角度から見ますと、「心をどこにも出向かせないこと」で我々は、それとはまた別の意味における変化を自分にもたらすことができるものなのです。それとはまた別の意味における変化とは、この現象世界の内側から見る限りでは絶対に分からない変化のことです。
具体的に申し上げましょう。「心をどこにも出向かせないこと」で我々は、この現象世界の外側に存在している真我という名の、もうひとりの自分を顕在化させることができます。この現象世界を仮に「水平の世界」だとしますと、ここに言うこの現象世界の外側は「垂直の世界」ということになります。
前者と後者の違いは水平と垂直の違いです。水平の世界をどこまで進んで行っても垂直の世界に出ることはできないのと同じように、この現象世界の内側をどこまで進んで行っても、その外側に出ることはできません。
ということで我々にとって、全ての欲を捨てて心をどこにも出向かせないことは、ある角度から見ると「水平方向」への移動の停止を意味しますが、別の角度から見ると「垂直方向」への移動の起こりを意味します。
この現象世界の内側での変化すなわち「水平方向」への移動が続いている間は我々に、「垂直方向」への移動は起こりません。「水平方向」への移動が停止した時だけ我々に「垂直方向」への移動は起こります。
悟りとはこの「垂直方向」への移動のことでもあります。

Bあの方法のこと

ご存じの方はご存じのように、悟るためには一切の欲をすてなければならないという話を私は今回はじめていたしました。この手の話をするのは、当ホームページ開設以来、はじめてのことです。悟りの何たるかを語る上で、話を複雑にしないためにこれまでは、意識的にこの手の話は避けて来ました。この手の話を避けてさえ、悟りの何たるかを語ろうとすると、話はそれなりに複雑になってしまいます、少なくとも私の場合は。それは、これまでの私の話を振り返ってみれば、お分かりになるはずです。
はじめからそれが読めていましたので私は、「悟るためには一切の欲を捨てねばならない」という内容を含んだ今回のような話は持ち出さないまま、今日まで来たわけです。が、この度、当ホームページの姉妹版とも言うべきブログ「悟りのブログ」を開設するに当たり、そろそろ今回のような話もしておく必要があるかなと思い、今回のような話をさせていただきました。
「悟りのブログ」と言えば、行く行くはこの中で、私が昔開発した「即効で悟りの世界を垣間見るための方法」を公開させていただく予定です。この方法をいずれ公開いたしますという話を以前、『心と真我』の中でいたしましたが、それを実行に移す時が来たというわけです。
悟りへの唯一の道は心を脇に置くことである、という私の持論をご存じの方は、この「即効で悟りの世界を垣間見るための方法」は「即効で心を脇に置くための方法」でもなければならないこと、お察しいただけると思います。確かにソレは「即効で心を脇に置くための方法」でもあるのですが、そのことに関して皆さんにお断りしておかねばならないことがあります。
先ほどの話と矛盾するようですが、ソレは「即効で心を脇に置くための方法」でもあるとはいえ、我々が抱えている諸々の欲を消滅させてしまえるだけの効力を持っているわけではありません。先ほどの話を踏まえると、ソレが「即効で心を脇に置くための方法」でもあるというからには、我々が抱えている諸々の欲を消滅させてしまえるだけの効力がソレには有るということだ、という理屈にはなるでしょう。が、実際は、そこまでの効力はソレには無いのです。ただし、我々が抱えている諸々の欲を一時的に脇に置く効力ならば、ソレには有ります。
我々が抱えている諸々の欲を消滅させるところまでは行けませんが、それらを一時的に脇に置くところまでは行けるのがくだんの「即効で悟りの世界を垣間見るための方法」なのです。「それでは、ただのゴマカシじゃないか」とおっしゃるならば、私はそれに反論いたしません。我々が抱えている諸々の欲を消滅させるってことと、それらを一時的に脇に置くってこととは似て非なるものだからです。が、考えようによっては、そういうゴマカシの部分がある方法だからこそ、多くの方は安心してそれに取り組めるんじゃないかとも言えます。
いずれにしましても、この方法には我々が抱えている諸々の欲を一時的に脇に置く効力しかありませんので、方法の実践をやめると同時に、我々はまた「元に戻る」ようになっております。ザマーミロ!じゃなくて……、それがこの方法の限界であることを、前以て皆さんにお断りしておきます。
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