『マインド自動浄化法』


A潜在意識は真我ではない

『マインド自動浄化法』すなわち「ネガティブな感情を遠ざけない。しかしてそれを感じない。」というこの方法を実践することによって我々は遅かれ早かれ、次の事実に気づくことができます。我々はネガティブな感情を遠ざけさえしなければ、感じることを止めても、ネガティブな感情の存在を覚り(しり)得るすなわち、ネガテイブな感情がそこに在ることが分かる。我々にとって、感じることだけがネガテイブな感情の存在を覚る(しる)ための手段ではないということですね。(※「覚る」の代わりに「知る」と書いても悪くはないのですが、「知る」と書きますと思考や頭が働いている状態を連想させやすいので、ここでは止めておきます。)
我々の心にネガティブな感情がある時、それを遠ざけたり、それに背を向けたりしない限り我々は、感じることを止めても、ネガテイブな感情の存在をちゃんと覚ることができます。すなわち、そこにどんなネガティブな感情があるのかをちゃんと覚ることができます。その覚る働きは、どこから来ているのでしようか。実はそれは真我から来ているのです。感じることを伴わない、心の中の思考や感情やイメージなどの存在を覚る働き、それは真我からのものです。もっと言いますと、心に生じた色々な感じ(感覚)の存在を覚る働きもまた、真我から来ています。
考えることを止めるとその下に隠れていた心の感じる働きが顕在化するという話は現在多くの人たちに周知されています。が、考えることも感じることも二つながら止めると前述のような真我の覚る働きが顕在化するという話はまだそんなに周知されていないように思われます。あくまでも現在の話ですよ。
考えること(顕在意識の働き)も感じること(潜在意識の働き)も二つながら止めると、真我の覚る働きが表に出てきます。別の言い方をいたしますと、顕在意識(思考の出所)と潜在意識(感性の出所)の両方から成る心全体を脇に置くと、真我の覚る働きが表に出てきます。
潜在意識と真我は混同されがちですがこれは、潜在意識というものもまた顕在意識と同じく、真我とは別物であることを意味してもいます。仮に顕在意識を小さい自分だとしたら潜在意識は大きい自分ということになりますが、その大きい自分でさえも真我には該当しないわけです。
より詳細に見ると、潜在意識それ自体にも浅い層から深い層まで幅があり、最も深い層は万人共通の潜在意識、いや、万物共通の潜在意識と言ってもよいかと思いますが、その万物共通の潜在意識と言うべきものでさえ真我に該当しません。一見するとシロート目には(失礼!)真我のように映るとしてもです。それとて心というカテゴリーの中に納まっているという点では、顕在意識のお仲間です。そして、顕在意識と潜在意識の両方から成る心と真我とは別物なのです。
ついでながら、それに関して私がまずいなと思うのは、心の働きを指す意識という言葉が、心とは別物である真我を表すために用いられることもある点です。自戒の意味も込めて申せば、心とは全く関係の無い真我というものが、心の働きを指す意識という言葉で表現されることがあるのは、本当は非常にまずいことなのです。どうして、そういうことになってしまったのでしようか?
おそらく真我を表すためのピツタリの言葉が世の中に無いので、意識という人間の不可視の部分を表す言葉が間に合わせに使われたのだろうと推測されます。ちなみに例えば江戸時代のような、意識なんて言葉が無かった頃は、心という言葉で真我を表された方もおられるようですが、背景にある事情は同じであるはずです。
いずれにしても悟る前の人の間で使われている意識という言葉は、心の働き以外の何物をも指していません。彼らは意識という言葉から、心以外のものを連想できないからです。心の彼方にあるものをご存じない悟る前の人がどうして、心以外のものを連想できるでしょうか。例えばあの高名なカールユングとて、その例に漏れるものではありません。それは心理学という枠の外に出ることの無かった生前の彼の仕事内容を見れば明らかでしよう。
しかし悟った人が意識という言葉で真我を表す場合、その言葉は心以外の何か、心の彼方にある何かを指しています。例えばクリシュナムルティは晩年、「人類に意識が顕在化することはもうないのだろうか…」と嘆いていたと伝えられますが、このフレーズの意味合いからしても、彼の使う意識という言葉が心以外の何か、心の彼方にある何かを指していることは間違いありません。そういう食い違いがあるわけです。
以上のことを通して私が申し上げたいのは要するに、真我とは、悟る前の段階では誰もが想像できない、体でも心(顕在意識+潜在意識)でもない第三の何かだということに他なりません。この見解が今のところ、あらゆる「説法者」の中で異端に位置していることは、かく言う私としてよく承知しております。現役の「説法者」すなわち、この文章が発表されている現時点におけるあらゆる「説法者」の中で、私と同じように真我と心を別物として扱っておられる方はそんなにおられないと思います。皆無とまでは言えないでしょうが少なくとも、皆無に近いとは言えるはずです。今後のことは分かりませんけれども。
(※Bに続く)
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