『マインド自動浄化法』


B真我は粒子の集合体でもない

前回、潜在意識は真我ではないというお話しをいたしました。この際だから、「説法者」としての私の旗幟(きし)をより鮮明にするためにも、真我に関するもっと掘り下げたお話しをしておきましょう。
真我とか悟りとかに関心を抱かれるような方であれば誰でも分かっておられるはずですが、この宇宙には、肉体を持った我々が活動できる範囲である「五感にかかる(目に見える)領域」だけが存在しているのではありません。それとは別に、不可視の粒子で満たされている「五感にかからない(目に見えない)領域」というものも、この宇宙には存在しています。
ここに言う「粒子」なるものは、量子物理学では波動という側面も併せ持つことが解明されておりますので、「波動」と言い換えることもできます。またそれは捉える角度によっては、「エネルギー」とも「気」とも言い換えることができます。ここに言う「粒子」には、それらの意味合いも含まれていることを念頭に入れておいてください。要するに物質以前の、目に見えない万物の構成要素のことをここでは「粒子」と総称しているわけです。ちなみに、その粒子で満たされている「五感にかからない領域」と我々の潜在意識とは繋がっているとも言われております。
これ以降は説明の便宜上、今取り上げた「(この宇宙の)五感にかかる領域」のことを「表の領域」と呼び、「(この宇宙の)五感にかからない領域」のことを「裏の領域」と呼ぶことにいたします。そう言えばニューサイエンスという分野には「明在系」「暗在系」という二つの呼び名がありますが、前者は私の言う「表の領域」と同じかほぼ同じ、後者は私の言う「裏の領域」と同じかほぼ同じ、と見なしてもよさそうです。
さて真我の何たるかを体験的事実としてご存じない方でも、とどのつまりは悟りへの途上におられる方でも少なくとも、真我が「表の領域」のものでないことだけは分かっておられるはずです。見ることも触ることもできない真我が「表の領域」のものであるわけないのは、誰にとっても自明のことですからね。
そうしますと理論的には真我のありかは「裏の領域」か、もしくは「表の領域」でも「裏の領域」でもない「第三の領域」のどちらかだということにならざるを得ません。いきなり「第三の領域」なんていう言葉を持ち出したので驚かれたでしょうか。「表の領域」でも「裏の領域」でもない「第三の領域」なるものがもし在るとすれば、という前提のもとに私は今この話をしております。今の段階では、そういうものが在るとも無いとも明言いたしませんが、ここて゜皆さんに申し上げておきたいのは、真我の探求はあらゆる可能性を視野に入れた上でなされるべきである、ということです。
もし「第三の領域」が無いのであれば当然ながら、真我のありかは「裏の領域」以外には考えられませんが、もし万が一にもそれが在るとしたら、多くの人が悟りに到る前の段階でしてしまっているように、真我のありかを「裏の領域」と頭から決めてかかることはできなくなります。「第三の領域」が真我のありかである可能性も残されているからです。
私見ながら、現役の「説法者」、すなわち現在何らかの形で悟りや真我の何たるかを人様に説いておられる方々のほぼ百パーセントが、いかなる根拠に基づいてのことかは存じませんが、真我のありかを「裏の領域」としておられることは間違いありません。彼らのほぼ百パーセントは、真我のありかを「裏の領域」としておられる点ではお仲間だと言えます。
といっても、彼らのほぼ百パーセントが真我の何たるかを同じような言葉遣い、同じような物言いで説明しておられるということではありません。それぞれに異なる言葉遣いとニュアンスで真我の何たるかを説明しておられます。が、それらを通して真我というものが「裏の領域」のものとして位置付けられていることだけは、一つの共通点として見て取れるのです。
納得していただくために、多くの「説法者」によって世に提示されている「真我像」のいくつかのパターンを、私なりの言葉でまとめて挙げておきます。
「万物を育み生かしている一つの大いなる命、あるいは共通の生命エネルギー」
「万物を振動によって創り出している根源的な意識」
「万物が一つに繋がっている量子的エネルギーの場」
「万物を結ぶ無意識のネットワーク」
「全宇宙の知識の貯蔵庫」
……
……
如何でしょうか。それぞれ言葉遣いやニュアンスは異なりますが、真我が「裏の領域」のものとして捉えられているところは共通しているでしょう。このように申し上げると、「では、お前は真我をどの領域のものとして捉えているのか?」という声が聞こえてくるようです。
まずは前出の「真我像」に対する感想から述べさせていただくならば、それらのいずれにも私は組しません。前出のいずれの「真我像」に対しても、私は首を横に振ります。これでお分かりになったでしょう。私の見解では「表の領域」でも「裏の領域」でもない「第三の領域」こそが真我のありかなのです。より正確に申せば、「第三の領域」が真我そのものということになります。
先ほどは敢えて、その「第三の領域」なるものが存在する可能性を示唆するに止めておきましたが、本当のことを言わせていただくと実際にそういうものは在るわけです。それも、真我が存在している場所というよりは真我そのものとして。
この「第三の領域」には当然のことながら粒子は存在しません。粒子が存在するのは「裏の領域」ですから。が、見方によっては、「第三の領域」全体が一個の素粒子みたいなものだと言えなくもありません。素粒子というのは物理学用語でこれ以上分割できない粒子のことですが(お金の世界に当てはめて申せば、一円玉みたいなものでしようか?)、そのように言えなくもないのは、この「第三の領域」すなわち真我もまたこれ以上分割することのできないものだからです。真我をこれ以上分割することができないのは、真我は例えば粒子のような何らかの構成要素の集合によって成り立っているものではないからに他なりません。
これ以上分割することができないという一点において、「第三の領域」すなわち真我と一個の素粒子とはお仲間ということになります。従ってあくまでも比喩ですが、真我とはたった一個の素粒子を無限大にふくらませたような存在だとも言えます。無限大の大きさなのに、その実体はたった一個の素粒子のような存在、それが真我というものなのです。「初耳」だったでしょうか。「初耳」だったはずです。真我を粒子の集合という「説法者」はあまた居ても、真我をたった一個の素粒子のようなものと言う「説法者」は皆無か、皆無に近いからです。今後何ゆえにか、そんなことを言う「説法者」がどっと増えるなんてことは……。
いずれにしてもここまで具体的なことを申し上げれば、「裏の領域」のものである「万物を生かし育んでいる根源的な生命エネルギー」といった類のものと真我とは如何に別物かってことが、お分かりになるでしょう。
(※Cに続く)
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