『マインド自動浄化法』


D真我は感じることを伴わずに覚る

真我とそうでないものの区別に関する話ばかり続きましたので、真我それ自体がどういうものかってことについての突っ込んだ話もしておきます。真我それ自体がどういうものかってことにつきましては説明の仕方が色々あるのですが、ここでは本稿のテーマに沿って、まずは次のように申し上げましょう。
「真我とは、我々が五感で捉えたものや心に抱いた思考やイメージや感情などの存在を、感じることを伴わずに覚る(しる)主のことである。」
当サイトの中で私はしばしば、「真我は見る者である」とか「真我には見る働きがある」といった物言いをしてきましたが実は、ここに言う「見る」の意味は「感じることを伴わずに覚る」ということなのでした。今にして思えば、そこのところをしっかり押さえておくべきでした。以前の私は気が付いてなかったのです。何の解説も付けずに「真我は見る者である」とか「真我には見る働きがある」とだけ申し上げた場合、(覚者は別として)ほぼ全員が、「見る」という言葉を「感じる」という意味に受け取るらしいことに。
「感じることを伴わずに覚る」とは具体的にどういうことなのか、ここで少し説明させていただきます。
例えば我々の日常生活の中では、思いがけないタイミングで何かを目にした時、びっくりして思考はもとより感じることさえも脇に置かれてしまうことがあるでしょう。めったに無いことですが、そういう瞬間我々は、目にしたものに対して何も感じていなくても、それの色や形をちゃんと覚り(しり)得ているものです。普段は心の感じる働きを通してものの色や形を覚っていたつもりの方でも、その時ばかりは心の感じる働きを通さずとも、ものの色や形を覚ることができています。「感じることを伴わずに覚る」というのは、例えばそういうことです。
我々は心で何も感じなかったら、そこに在るものの色や形が分からなくなるというものでもないのですね。我々は心で感じる前の段階で既にそこに在るものの色や形を覚ることができています。そのような時、例えばあなたの目に映るものの色や形を見ている主は、あなたではなく、(あなたの)真我に他なりません。だからこそそのような時、あなたはご自分の存在を忘却しておられるわけです。身に覚えはありませんか。目の持ち主はあなたではあるでしょうが、その目を通してそこに在るものの色や形を見ている主はあなたではなく、真我なのです。
とはいえ、目の持ち主は自分なのにその目を通してものの色や形を見ている主は真我だという話、なかなか受け入れ難いかも知れません。なかなか受け入れ難いと感じておられる方はひとつ、寝床で夢を見ている時のことを考えてみてください。夢の中に居る自分の目を通して夢の中の景色を見ている主は寝床に居る方の自分であって夢の中に居る方の自分じやないということは、お分かりになるでしよう。そこにおいては、目の持ち主とその目を通して景色を見ている主とは異なるわけです。だとすれば、夢でないとは言い切れないこの世界においても、同様のことがあったとしても何ら不思議は無いじやありませんか。
もしもあなたが、自分の目に映るものの色や形を見ている主は自分であると言い切ることに少しでも躊躇(ちゅうちょ)されるとしたら、今申し上げたことをどこかで薄々分かっておられるのかも知れません。
次に申し上げたいのは、その真我の見る働きすなわち、感じることを伴わずに覚る働きは我々が目にするものに限らず、それ以外の様々なものに対しても向けられるということです。それは具体的には、我々の五感が捉える全ての外界の情報、および我々の心に生じる思考やイメージや感情などのことですが、特殊なものとしては瞑想中の出来事や体験もまたその中に含まれます。その意味において真我とは我々にとって、五感が捉えるものや、心に生じるものや、瞑想中の出来事や体験などを見るための目のような存在であるとも言えます。
従って例えば、もしもあなたが瞑想中に、自分を超えた何か大きな存在を体感した(感じた)とした場合、真我はあなたに起こったその体感を見る側にあることになります。それが何を意味しているか、もうお分かりですよね。そう、それはあなたが瞑想中に体感したものは何であれ、真我以外の何かだということを意味しているわけです。残念でした。
それにしても……、真我を体感することが悟りだなんて妙な説を世界中に広めちゃったの誰?
(※Eに続く)
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