『マインド自動浄化法』


E悟りについて

そろそろ『マインド自動浄化法』のことに話を戻したい、というより、下書きの原稿ではそういう段取りになっているのですが、今回はとっさの思い付きでそれを変更し、悟りに関する話をさせていただくことにします。悟りに関する話は本当はもっと後にする予定だったのですが、前回の話の流れに照らして、その方がよかろうと判断したわけです。話が横道にそれてばかりで申し訳ない……。では、はじめましょう。
悟りとは何かと申しますと、「真我という名の目を使って真我という名の目自身を見ること」だとも言えます。
我々は既にご承知の通り、真我という名の目を使って五感が捉えたものや心の中にあるものなどを見ることができるわけですが、な、な、な、な、なんと!!真我という名の目自身をもそれを使ってみることができるのです。びっくりしたかコノヤロー!!てか。この物質界において我々が、肉眼を使って肉眼自身を見ることができないのとは大違いですね。我々は、肉眼を使って肉眼自身を見ることはできませんが、真我という名の目を使って真我という名の目自身を見ることならできるという次第です。
その出来事を悟りというのですが、補足いたしますと実はこの物言いには少しばかり方便が混じっております。と申しますのは、これまでの話の流れを受けて、皆さんが受け入れやすいように、真実を損ねすぎない範囲でのヒネリが加えられているということです。ヒネリ無しで単刀直入に申しますと、悟りとは「真我が真我自身を見ること」です。言い換えれば、真我の、感じることを伴わない覚る(しる)働きが真我自身に向けられることが悟りだというわけです。当然ながら、その出来事の中には感じることは含まれてはおりません。そのことと、覚るものと覚られるものが同一であるということ、この二つは、悟りにおける二大不思議と言えるのではないでしょうか。
私のつたない記憶によりますと、そのあたりの消息を今は亡き臨済宗の芝山全慶禅師は「無が無自身に気づく不思議な転回」と表現しておられたように思います。
そう言えば最近、インターネツトで気の向くままにあちらこちらのページを開いて眺めておりましたら、真我の発見は心で起こるのか体で起こるのか、というようなことを考察しているページが目に入りました。が、読んでみますと、真我の発見は心でも体でもない、つまり私ではない真我それ自体の中で起こる、という正解は示されてはおりませんでした。
その出来事の中に、体感とか一体感とか実感とか「これだっ!」という感覚などは含まれてはおりません。そこでは感じることを伴わない真我の覚る働きが、真我自身に向けられているからです。
色々な方が言われているように、この私が心の奥深いところで真我を発見するというものでもないのですね。この私は思考によっても、感じることによっても、頭によっても魂によっても、左脳によっても右脳によっても、心の浅いところによっても心の深いところによっても真我を覚ることはできません。真我を覚り得るのは唯一、真我自身なのです。
(※Fに続く)
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