柳は緑、花は紅

D有るがままに有りつぶれる

おさらいの意味も込めて、主客合一というものを理解する上で参考になりそうな言葉をいくつか挙げておこう。
まず一つ目は「眼が釘付けになる」という言葉である。これはケンプンの話をした時にも出したので、覚えておられるかも知れない。
二つ目は「我を忘れて見入る」という言葉である。
この二つの言葉は主客合一した時の意識状態を言い表しているところがありまた、一般的にもよく知られた言葉でもあるので、主客合一の何たるかをイマイチ飲み込めない人でもこれらを通して、主客合一というものの意味によく迫ることができるだろう。
まず「眼が釘付けになる」という言葉についてだが、ここに言う眼が肉体の眼ではなく肉体の眼を通してものを見ている意識を指していることは、言わなくてもお分かりであろう。意識にはものを認識する働きがあるので、眼という言葉の意味を広く取ると、意識もまた眼と言える。その意識という名の眼が肉眼に映るものとピタリと一つになることを我々は「眼が釘付けになる」などと言う。誰でも一度や二度はそんな体験がおありであろう。それが、ものと主客合一することなんだと思っていただければ、おおむね間違いない。おおむね間違いない、という言い方をするのは、厳密に申せば「眼が釘付けになった」状態の極みに主客合一があるからだ。が、とっかかりとしては取りあえず、前述のようなおおまかな理解でよいかと思う。
「我を忘れて見入る」という言葉は(肉眼に映るものと)主客合一した時の意識状態を別の角度から言い表したものだと言える。その意識状態にある時、見るものと見られるものは一体化しているので、「向こうにあるものをこちらにいる自分が見ている」という形での主体と客体の対立は失われている。それは言い方を代えれば、ものを見ている自分が無くなることなのでもある。「我を忘れて見入る」という言葉には、その辺りの消息が表現されている。
さて、我を忘れてものに見入っている状態を裏から眺めると、(見られている)ものだけが存在している状態ということになる。そこでは、見られるものだけがあって見るものは無い。もちろんこれは、意識の世界でのことを言っているのだけれども。
そういえば、主客合一という言葉の生みの親である西田幾太郎がこんなことを言っておりましたっけ。
「赤ちゃんがオギャーとこの世界に生まれて来た時、そこにあるのは光だけだった」
細かい言い回しは違ってるかも知れないが、意味は合っているはずだ。ここで示唆されているのは、生まれたばかりの赤ちゃんはそこで出合った光と主客合一した状態になっている、ということである。
赤ちゃんがそういう意識状態になるのは、光についてのいかなる記憶も観念もイメージも持ち合わせていないから、簡単に言うと、無心に光を見るからである。無心にものを見ることが(見られる)ものと主客合一するための契機になることは、既述の通りである。
そして、赤ちゃんが無心に光を見るのは文字通りそれが、生まれてはじめてお眼にかかるものであるからに他ならない。生まれてはじめてお眼にかかるものにどうして、記憶や観念やイメージが湧いてくるだろう。だからかの赤ちゃんならぬ我々でも、生まれてはじめてお眼にかかるようなものに出合った日には、自然と主客合一の状態に導かれるものだ。
例えば、見知らぬ土地を訪れて見たこともないような美しい夕日を眼にした時なんてのは、どうだろうか。そういう状況に置かれたら我々はきっと、我を忘れて夕日に見入り、夕日だけがそこにあって私は居ないという主客合一の状態になるに違いない。
そういう状況に置かれたことのある人はその時のことを思い出し、無い人はそれに類する体験を思い出し、見られるものだけがそこにある状態とはどういうものなのか、ピンと来ていただきますように。
さて、主客合一という難しい言葉の意味を理解する一助としていただくために、「眼が釘付けになる」と「我を忘れて見入る」という二つのとっつきやすい言葉を紹介させていただいたが、次に紹介させていただく言葉は逆に、皆さんにとって非常にとっつき難いものであるだろう。ほとんどの人が知らないような言葉のはずだから。しかし主客合一というものについての、前出の二つの言葉ではカバーできないもう一つの側面を表している言葉なので、はずすわけにはゆかない。
「(ものが)有るがままに有りつぶれる」というのが、それだ。有って有りつぶれる、などと言うこともある。禅関係の本を読んでいるとごく希に出てくる言葉で、誰が言い始めた言葉なのかは分からない。また、その意味を説明した文章を見たこともない。だから、これから述べることはその言葉に関する私流の解釈に基づいたものであることを、お断りしておく。
ものが有るがままに有りつぶれるとはどういうことなのか、説明に入る前にまず触れておかねばならないことがある。先ほど私は、ものと主客合一するとものを見ている私は消えて無くなると申し上げたが本当は(見られている)ものも一緒に消えて無くなるのである。このように申し上げると次のように思われる向きもあるかも知れない。それでは、主客合一の中では見られるものだけが残るという前の話と矛盾するのではないか。だが、そうはならないのである。なぜならこれは、意識の世界のことを言っているのであって、物理的な世界のことを言っているわけではないのだから。
先ほどの例に当てはめるならば、夕日と主客合一すると夕日が目の前から忽然と消えて無くなるというような意味でそう申し上げたわけではない。もし仮にそんなことがあったとしたらただ単に、ちょっと眼をそらしてるスキに海か山の端に沈んだだけのことじゃんか。何、そんなことは言われなくても分かってるわい、ですって……。
夕日と主客合一すると物理的な意味での夕日は消えて無くなるどころか、最も有りのままの姿を我々の前にさらすものだ。そこでは、ものを有りのままに見ることを妨げる一切の想念が払底されているのだから。にも関わらず、意識の世界においては夕日は消えて無くなるのである。ここに言う「消えてなくなる」とは、存在感が消滅する、あるいは本当は存在していないという認識が生じる、というほどの意味である。
ものが有るがままに見えている中で、ものの存在感が消滅すること、ものが有るがままに有りつぶれるという言葉の意味はそんな風に受け取ることができる。
この事実とは裏腹に、我々は頭の中だけで考えると、次のような錯覚に陥りやすい。ものは有りのままに見れば見るほど存在感が増してくるのではないか。そして、有りのままに見ることが極まると、その存在感は最大化するのではないか。
だが実際は、体験しない限り分からないことではあるが、ものを有りのままに見ることが極まると、ものは「有るがままに有りつぶれる」即ち、有るがままの姿を我々の前に保ったまま存在感を失うのである。
このようなわけで、前のページで述べたことの繰り返しになるが例えばの話、柳を緑のままに花を紅のままに即ち、柳や花を有りのままに見ていささかのまぎれもなくなれば、私も柳も花も無い世界に入ってしまうのである。
主客合一と呼ばれる意識状態の中で、説明が最も難しいのはこの「ものが有るがままに有りつぶれる」という側面である。「眼が釘付けになる」という側面及び「我を忘れて見入る」という側面について説明するのは、そこまで難しくはない。なぜならこの二者は誰にでも覚えのある体験と接点があるから。それらの体験の純度が極まったところにしか「ものが有るがままに有りつぶれる」という消息は訪れない。そこまで行ってはじめて、本当の意味でものと主客合一したことになるわけだ。
(Eに続く)
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