『マインド自動浄化法』


H感覚という名のサングラス

繰り返しになりますが、感じることを伴わずにネガティブな感情の存在を覚って(しって)いる状態こそが、真我という名の眼でネガティブな感情を見ている状態に他なりません。従って真我という名の眼でネガティブな感情を見ることの中には感じることは含まれておりません。
が、皆さんの中に意味の取り違えがあると困るので念のために申し上げておきますれども、これは、感情それ自体の中に「感じ」が含まれていないということなのではありません。当たり前と言えば当たり前のことではありますが、真我に見られる側にあるネガティブな感情それ自体の中には、何らかの「感じ」が含まれています。より正確に申せば、喜怒哀楽に代表される全ての感情の中には何らかの「感じ」が含まれています。すなわち、ポジティブな感情であれ、ネガティブな感情であれ、感情と名のつくものそれ自体の中には一つの例外も無く何らかの「感じ」が含まれています。だからこそ例えば喜怒哀楽という四つの感情は、多少強引ではありますがそれぞれ、「喜びの感じ」「怒りの感じ」「哀しみの感じ」「楽しさの感じ」という風に言い換えることもできるわけです。
私が冒頭で申し上げたことの意味は、それらの感情を見ている時の真我の見る働きの中には感じることは含まれていない、ということなのです。そこを押さえた上で話を続けましょう。
心とは別物である真我は感じることができません。何であれ何かを感じることができるのは心だけです。その心は、感じる対象として自らが抱えている、すなわち心の中にある喜怒哀楽などの感情を選ぶこともできます。では例えば、心が心の中にある喜怒哀楽を感じている時、真我はどうしているかと申しますと(どうしているか、というのも変な言い方ですが)、その心が感じている喜怒哀楽を見ています。そして心が喜怒哀楽を感じるのを止めた時には、喜怒哀楽それ自体を見ています。心が感じている喜怒哀楽と、喜怒哀楽それ自体の区別がおつきでしょうか? 区別が曖昧な方のために説明いたしましょう。
喜怒哀楽それ自体は心が感じる前に既に心の中に生じて存在しています。だからこそ心はそれに対して、「感じてみよう」とか「いややっぱり感じるの止めよう」とか思うこともできるわけです。喜怒哀楽それ自体はいったん心の中に生じてしまえば、心が感じているかいないかということとは無関係に、そのまま心の中に存在しています。で、真我は、心がその喜怒哀楽を感じている時には心が感じている喜怒哀楽を見ていますが、喜怒哀楽を感じるその心の働きがあたかもサングラスが外されるように脇に置かれた時には喜怒哀楽それ自体を見ています。そこにおいて喜怒哀楽を感じる心の働きは言うなれば、真我という名の眼にかかるサングラスのようなものだとも言えるわけです。
思考や感覚を真我という名の眼にかかるサングラスになぞらえて申し上げるならば、以上のようなわけで、真我という名の眼で喜怒哀楽を(直に)見ている状態になるためには、思考という名の「色の濃い」サングラスだけでなく、感覚(心の感じる働き)という名の「色の薄い」サングラスもまた外さねばなりません。後者は前者に比べて「色が薄い」とはいえサングラスはサンクラスです。その「色の薄さ」にだまされてはなりません。思考という名のサングラス同様、感覚という名のサングラスも外された時はじめて真我の見る働きは喜怒哀楽それ自体に向けられることになります。
(※Iに続く)
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