『マインド自動浄化法』


L真我を視界に捉えることはできない

内的な世界においての話ですが、我々が真我という名の眼でネカ゜ティブな感情を見ている時、我々の視界に捉えられるのはネガティブな感情だけです。ネカ゜ティブな感情を見る側にある真我という名の眼まで我々の視界に捉えられることはありません。これは例えば外的な世界において、我々が花なり月なりを見ている時、花や月などは我々の視界に捉えられるのに、それらを見る側にある肉眼まで我々の視界に捉えられることはないのと同じです。
ここに言う真我という名の眼と肉眼の共通点はどちらも見られる側の存在ではなく、見る側の存在だということです。そこを踏まえて敢えて当たり前の話をさせていただくならば、内的な世界においてであれ、外的な世界においてであれ、見る側にあるものを我々は自分の視界に捉えることは絶対にできません。
従って例えば我々が、ある種の瞑想などを通して内的な世界にどれだけ入りこむことができたとしても、真我という名の眼だけは視界に捉えることはできないわけです。そこにおいて真我という名の眼は、我々が内的な世界で視界に捉えたものを見る側に位置しています。ということはそこにおいて、我々が内的な世界で視界に捉えたものは何であれ、一つの例外もなく、真我ではないということになります。例えばそれが、自分を超えた大いなる存在だの、光だの、エネルギーだの波動だの振動だの、万物を生かしている大生命だの、その他もろもろ、如何にも真我であるかのように見えるものであったとしてもです。その手のものでさえ、我々の内的な視界に捉えられたものである限りにおいて真我以外の何かだということになります。真我とはその手のものを見る側の存在だからです。
これでお分かりのように、真我というものは、外的な世界はもちろん内的な世界においてさえ、我々の視界には捉えられないようになっております。真我の何たるかがよく分かっておられる方は「真我は対象化(客体化)できない」ということをよく言われますが、そういう意味で言っておられるわけです。
話を戻しますが以上のような理由により、もしもあなたが『マインド自動浄化法』の実践中、内的な世界において、ネガティブな感情だけが視界に捉えられている状態になったとしたら、正しい実践ができているということ、すなわち真我という名の眼でネガティブな感情を見ている状態に成れているということに他なりません。それとは逆にもしもあなたが、『マインド自動浄化法』の実践中、内的な世界において、ネガテイブな感情とそれを見ている真我という名の眼と、二つのものを視界に捉えたとしたら、何か大変な勘違いをされているか、実践の仕方が根本的に間違っていることになります。
(※Mに続く)
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